山のふもとで犬と暮している 2
どこかで、犬が鳴いている――。暖かく柔らかい光が差し込む部屋で目を覚ます。
瞼は、最初から半分しか空いてないから、そう眩しくはない。
長いこと、寝室といえば遮光カーテンで真っ暗にするのが当たり前だった。
ここで暮らすようになってからは光を通すカーテン越しに、朝の気配を感じながら少しずつ目覚めていく毎日だ。
今日は既にカーテンも開けてある。
これは、自然の目覚まし時計であり、とっとと起きろという、同居人からの無言のメッセージでもある。
乾は、ベッドで半身を起こし、思い切り両腕を伸ばした。
この家に住むようになってから、静寂に慣れた気がする。
以前は用がなくても、なんとなくつけっ放しにしていたテレビも、今は殆ど見なくなった。
静かに暮らしていると、家の中では小さくても様々な音がすることを、ここに越してきて初めて知った。
季節や時間が違えば、聞こえる音にも違いがある。
庭の方から犬の吠える声がして、カーテンを開けた人間がどこにいるかを教えてくれた。
黒光りする廊下を歩いて、縁側に向かう。
厚手のデニムのシャツを着た手塚が、こちらに背を向けて濡れ縁に座っていた。
茶色っぽい髪が、風で微かに揺れている。
今日は暖かいので、格子戸を開け放っても、少しも寒くない。
さんさんと陽が降り注ぐす庭を、黒い子犬が元気良く走り回っていた。
乾の目を覚まさせたのは、この真っ黒なラブラドールだ。
「おはよう」
近づいて声をかけると、手塚は目を細めて乾を見上げた。
「何がおはようだ。今、何時だと思っている」
「午前10時17分ってとこかな」
ベッドに潜り込んだのは、午前3時を回っていた。
そんな言い訳は、手塚には通用しないから言うだけ無駄だ。
曖昧に笑いながら、隣に腰を下ろすと、挨拶のつもりか子犬が乾の足元に走ってきた。
「おはよう。ジェット」
差し出した手を、子犬は小さな舌を出して舐めた。
その様子を、乾以外の人間にはわからないほどの微かな笑みを浮かべて、手塚が見ていた。
たとえ笑顔に見えなくても、その両目には溢れるような優しさが浮かんでいる。
元鬼部長の手塚に、こんな顔をさせるのだから、子犬の持つ威力は凄まじい。
乾の視線に気づいたのか、手塚は急に表情を引き締めて、ふっと顔を前に向ける。
今更、澄ましたところでもう遅いだろうに――。
乾と視線を合わせないまま、手塚は静かに口を開いた。
「不二からメールの返信が来た。お前にも転送しておいた」
「うん。今、読んできた。ありがとう」
「どう思う?」
手塚は、ほんの少し首をひねり、横目で乾を見る。
「疑われているようだな」
「やっぱりそう思ったか」
手塚は濡れ縁から立ち上がり、庭に降りた。
その足元に、黒い子犬がじゃれついていた。
手塚の左手にあるボールが欲しいのだ。
犬を焦らすように、何度か投げるふりをしてから、手塚はボールを庭の奥に向かって放り投げた。
それを目指して、ジェットは弾むように駆け出した。
もとより、疑われることは承知の上だった。
あの不二が、気づかないはずは無い。
むしろ、心配しなくていいと遠まわしに知らせるために、誰よりも勘のいい不二に連絡したのだ。
だが、手塚が日本にいることには気づいても、まさか都内に住んでいるとは思っていないだろう。
「手塚は、どうするつもりだ?」
「何が」
手塚は乾に背を向けたままだ。
「本当のこと、教えるかい?」
少しの間黙り込んで遠くを見ていたようだが、やがて静かな声が返ってきた。
「まだ、いい」
手塚の視線の向く先に、秋晴れの空となだらかな稜線が見える。
一番高い山で標高は約600メートル。
そう高くはないけれど、山の上ではもう紅葉が始まっているのだろうか。
「会いにいこうと思えば、すぐだ」
「思ってないくせに」
「今は、な」
顔は見えなくても、手塚が笑っているのが、なんとなくわかる。
南向きの明るい縁側からは、庭全体が見渡せた。
世間一般では広いうちには入らないかもしれないが、マンション暮らしだった乾には十分に贅沢だ。
それに、この家の中で、手塚がもっとも気に入っているのは、この縁側と庭であるのは間違いない。
黒い子犬もここがお気に入りらしく、今は手塚の投げたボールを追って元気に走り回っている。
乾が、築七十年の家を買うことを決めたとき、回りからは物好きだと笑われたものだ。
ここまで古いと手を入れるよりも、いっそ新築した方がいいとも言われた。
偶然目にして惹かれただけで、自分とは縁もゆかりもない家だ。
だが、この趣のある家がなくなってしまうのは、どうしても嫌だった。
生まれたときからマンション暮らしだった乾の目には、とても貴重なものに映ったのだ。
売りに出ているなら、買ってしまおうと、ごく自然に考えた。
幸い、まるっきり手の出ない価格でもなかった。
安全に暮らせるように施したリフォームには、確かにそれなりの費用はかかったが、先人の知恵がつまった日本家屋での暮らしは、想像以上に快適だった。
初めてこの家を見たとき、手塚は実家に雰囲気が似ていると嬉しそうだった。
懐かしむように笑った顔を見て、自分の選択が間違いではなかったことを確信した。
手塚のために、買うと決めたわけじゃない。
でも、いつかはこうなる予感はしていた。
好きなだけいていいと告げたときの手塚の顔は、多分一生忘れないと思う。
「俺が、何十年も居座ったら、どうするつもりだ」
口調は冗談めかしてたいたけれど、両目は笑っていなかった。
「いいよ。それでも」
聞きようによっては、プロポーズのような言葉だった。
そう乾が気づいたのは、それからずっと後のことだ。
初めてともに過ごした夏が終わり、季節は秋になった。
今のところ、手塚が出て行く気配はない。
自分から、犬を飼ってみたいと言い出すくらいだから、当分はここで暮らすつもりだろう。
この生活がいつまで続くか、わからないが、とりあえずは楽しくやっている。
「不二への対応は、お茶でも飲みながらゆっくり考えないか」
「そうするか」
乾の提案が気に入ったのか、ボールを投げるのを止めて、振り向いた。
口元には微かな笑みが浮かんでいる。
「さあ、お前も家に入るぞ」
手塚は、はしゃいで走り回る子犬を捕まえ、両手で抱き上げる。
少し前までは片手で簡単に持ち上げられたのに、随分成長したものだ。
乾の方は、足を拭くための濡れたタオルを片手に待ち構えていた。
遊びたい盛りの子犬は、目を覚ましているときは片時もじっとしていない。
乾の手の中で、じたばたと暴れた。
「こら、ジェット。ちゃんと足が拭けないだろ」
新入りとして真っ黒のラブラドールがやってきたとき、どんな名前を付けようか、二人で散々考えた。
まだ小さな犬の艶々とした黒い毛並みは、とても印象的だった。
その色合いは黒琥珀とも呼ばれる黒玉のようにも見えた。
それで、ジェットと名づけた。
元気一杯の子犬だから、ジェットエンジンから取ったと言った方がふさわしいかもしれない。
どっちにしても、二つのジェットの綴りは同じだ。
何をしても、遊びにつなげてしまう子犬は、なかなか大人しく足を拭かせてくれない。
力づくで押さえつけるのは簡単だが、小さな犬を扱うのは初めてで加減がよくわからない。
出来れば、あまりそういう手段は取りたくなかった。
どうやら犬の方も、ちゃんとその辺を見抜いてて、乾をなめている気配がある。
見かねた手塚は、一段と声を低くして、強い口調で犬の名前を呼んだ。
「ジェット」
途端に、子犬は面白いほどに大人しくなる。
ぴたりと暴れるのをやめ、じっと両目を手塚に向けて、反応を待っている。
手塚が、よしと頭を撫でてやると、ジェットは嬉しそうに小さな尾を振った。
その隙に足先を拭き、そっと開放してやると、子犬は手塚のあとを追って、ころころと転がるように走っていく。
明らかに、自分にとってのリーダーは、手塚の方だと認識している。
「世帯主は俺なんだけどな」
服に着いた黒い毛を払いながら立ち上がると、子犬を従えた手塚が乾を振り返った。
「お前も早く来い」
「も、ってなんだよ。俺まで犬扱いか?」
「似たような名前じゃないか」
「それだけで犬扱いは納得がいかない」
ぶつぶつ言いつつ後を追うと、振り返った子犬が、身体に似合わない大きな声で、わんと吠えた。
犬の言葉はわからないが、多分名前を呼び捨てにされているんだろう。
そう乾は考えていた。
2008.11.22
「山のふもとで犬と暮らしている」の続きです。
乾は社会人、手塚はプロを引退して今は無職。二人で、穏やかに静かに暮らしています。
きっと寝室は別々だと思う。でもやることはやってます。