山のふもとで、まだ犬と暮らしている。

男二人と子犬一匹で迎えた今年最初の日は、よく晴れたとても気持ちのいい朝で始まった。
この古い家で年を越したのは初めてだが、郊外とはいえ、とにかく静かなことに驚いた。
大きな通りからは離れていて、元々騒音の少ない場所ではある。
だが、静かさを感じる理由は、きっとそれだけじゃない。
長い年月を越えてきたこの家の中は、時間の経ち方さえ、ゆっくりと密やかだ。
乾には、そんな風に思えてならなかった。

手塚も乾も、実家には去年のうちに少し顔を出した程度だ。
子犬がいるのを口実にして、結局一日も家を空けなかった。
もちろん、犬が心配なのは嘘ではない。
それ以上に手塚とともに新年を迎えるというのが興味深かった。

乾にとって、他人と二人きりで年を越すのは、生まれて初めての経験だ。
それに気がついたのは、三が日も過ぎてからのことで、当日はごく自然に感じていたように思う。
おせち料理は事前にデパートに予約しておいたものだが、一日の雑煮だけはなんとか自分達で作ってみた。
実家の雑煮はああだったこうだったと記憶をたどりながらの作業だったが、それなりには出来上がった。

「結構、旨い」
出来立ての雑煮を食べた手塚の第一声が、それだった。
「それ、褒めてるのかな」
「勿論だ」
この雑煮を作ったのは、八割方が乾で、手塚は二人分の餅を焼いただけだ。
それでも、満足そうにしているのが、少しおかしい。

犬には、特別に幼犬用の無添加ジャーキーを、ご馳走してやった。
値段は張るが、いかにも嬉しそうにかじり付く姿を見れば、ついまた買ってやろうという気持ちになってしまう。
人も犬も、特別な日にはご馳走がある方が楽しいに決まっている。

それにしても、本当に静かだ。
格子の嵌まった窓から差し込む光は、柔らかく暖かい。
ガラス越しに外を眺めると、寒い季節特有の住んだ青空に、東西に連なるくっきりとした稜線が浮かび上がる。
目の前の山に登り、頂上でご来光を拝もうかいう話も出た。
だが、最近は登山ブームとかで、都心からでも気軽にこられるこのあたりの山は、大晦日はものすごい人出になるらしい。
あまり混んだ場所に行くのは気が進まなかったので、初日の出は家で見ることにした。
実際、この家から眺める朝日は悪くなかった。

日が昇ったときには、窓を開けて今年初めての外の空気を吸い込んだ。
寒かったけれど、とても清清しい気分だった。
黙って隣に立つ手塚の顔も、どこか厳かに見えた。

あたりは静まり返っていた。
生まれたての光が、部屋の中を徐々に満たしていく。
かすかに聞こえるのは、時計の針が動く音と、眠る子犬の寝息だけだ。

「乾」
手塚が、ゆっくりと乾の方を向く。
「ん?」
さっきまで、少し眠そうだった瞳は、今は柔らかく細められてた。

「今年もよろしく頼む」
「こちらこそ」
微かに浮かべた手塚の笑顔に、乾も笑顔で返す。
すると、眠っていたはずの子犬が、タイミングを計ったように足元で一声吠えた。

「ごめんごめん。お前を忘れていたな」
屈みこんで犬の頭を撫でてやると、嬉しそうに黒い尾を振った。
手塚も同じように屈んで、犬の背を優しく撫でている。
「今年もよろしくな」
わん、という声に手塚は、ますます目を細くしていた。

一年前、自分に同居人ができるなんて思わなかった。
古い家を買い、そこに住み、手塚と犬と暮らすなんて予想できたはずがない。
今でも不思議で仕方ないけれど、この生活をとても気に入っている。

ひっそりとした家の中では、音や気配や匂いに敏感になる。
庭に咲く小さな草花や、窓から入る風にで、季節の移ろいを知る。
利便性を追求した生活では知ることのなかったものばかりだ。
住む家が違うだけで、こんなに自分が変わるとは信じられない。

自分が変わったのは、この家のせいばかりでもないだろう。
似ているところなんか、何もないと思っていた手塚との暮らしは、驚くほど快適だった。
同じように息を吸って、同じリズムで心臓が動いているのかもしれない。
そして、小さいけれどとても大切な、もうひとつの存在が、日々に新鮮な驚きと感動を与えてくれているのは言うまでもないことだ。

来年の今頃は一体どうなっているんだろう。
だけど、多分、今日と同じ顔ぶれで、静かに過ごしているのだろうという予感がしていた。
そうだといいと、乾は思った。

それが乾の、今年最初の日に願ったことだった。


2009.01.16

眼鏡達が苦労しながら、お雑煮を作る話を書こうと思ったんですが、なぜかこうなりました。