ホット ショコラ
ボスの寝室まで立ち入ることを許されている人間は、そう多くはいない。はっきりと確かめたことはないが、立場上、ある程度の確信はあった。
それを許されているごく少数の中に自分が含まれている。
乾は、未だに慣れ切れずにいた。
ベッドルームといっても、この部屋は決して狭くはない。
リビング空間も兼ねているので、ソファやテーブルも置いてあった。
そのどれもが、殆ど白い色をしている。
最初のうちは、この白い部屋にいる自分を、異分子のように感じていた。
「こんな時間に、すみません」
「さっきも聞いた」
ボスは、手にしていた白い花瓶をテーブルの上に静かに置き、ふっと軽く笑って見せた。
ゆったりとしたシャンパンホワイトのシャツに、乾が贈った薔薇が良く映えている。
優雅な指先が、白い花瓶に挿した薔薇をきれいに整えていく様は、何度目にしても、やはり見惚れてしまう。
乾はベッドルームの入り口の近くに立ったまま、手塚の姿を目で追っていた。
時刻は、夜の11時を幾分過ぎたところだ。
もっと早い時間に訪れるつもりだったのに、すっかり予定が狂ってしまった。
この時刻には、手塚が帰宅していることは、確認済みだ。
手には今日中に渡さないと意味のない贈り物。
ボスの家の前で、薔薇を抱えたまま、どうしようか迷っていると、防犯カメラでその一部始終を見ていた手塚に、出迎えられるという情けないことになってしまった。
それでも、手塚は無礼な訪問を怒りもせず、笑顔で薔薇を受け取ってくれた。
いつものようにベッドルームに乾を伴い、自ら花瓶に薔薇を挿した。
その一輪に顔を近づけ、手塚は香りを確かめているようだ。
口元には柔らかい笑みが浮かんでいる。
まるで、薔薇の花びらにキスをしているみたいだと、乾は思った。
「どうした?お前もこっちに来い」
手塚に話しかけられ、急に現実に引き戻される。
誘われるまま、手塚の向かい側に座ると、ボスは機嫌のいいときの顔をしていた。
話し方も、普段より少しゆっくり目だ。
「不思議な色合いの薔薇だな。レンガ色とでも言えばいいのかな」
「チョコレート色だそうです」
「ん?」
手塚は、ほんの僅か首を傾げた。
「その薔薇ですよ。ショコラという名前なんです」
薔薇の名前を口にした瞬間、なんとも言えない気恥ずかしさが込み上げてきた。
「バレンタインだから、か?」
案の定、手塚はくすりと笑った。
「ええ」
「誕生日のときといい、お前は案外可愛いことをするんだな」
「初めてですよ、こんなこと」
初めて、という部分を特に強調して答えた。
言い訳するようだが、これは本当のことだ。
記念日を気にかけていられるような穏やかな生活とは、まるで縁がなかった。
一日一日を、どうやって生き延びるか。
それだけを考える毎日だった。
今は違う。
目の前にいる人を彩るための花を送る口実を与えてくれるなら、どんな記念日でも構わない。
血の色をした薔薇を、血に汚れた手で渡しても、きっと受け取ってくれる。
薔薇が似合うというより、薔薇しか似合わない貴方なら――。
ビロードのような花弁を、そっと指先で弄んでから、手塚はふと顔を上げた。
「ホットチョコレートを飲ませてやろう」
手塚は軽く微笑みながら、立ち上がる。
「え?今、ですか」
「そうだ。同じ名前の薔薇を眺めながら飲むのもいいだろう」
返事に詰まったのをみて、手塚はまた面白そうに笑う。
「なんだ。甘いのは苦手か?」
実は、その通りだ。
だが、ボスの言葉には逆らわないと決めている。
「大丈夫です。飲みます」
「じゃあ、特別に、飛び切り甘いのを作らせよう」
微笑む手塚の唇は赤い。
貴方が飲めというなら、それが毒入りでも構わない。
最後の一滴まで、喜んで飲み干すだろう。
それが甘いチョコレート色の毒薬なら、寧ろ本望だ。
そんなことを口にしたら、きっとこの人はまた、可愛いと言って笑うのだろう。
乾の目の前で、シャンパンホワイトのシルクが、ふわりと揺れた。
2008.02.14
マフィア乾塚のバレンタイン。
一日フライングのつもりで書いていたんですが、日付が変わったので、フライングじゃなくなったなあ。