ミルクと紅茶

今夜は必ず来いと、ボスには朝から釘を刺されていた。
命令には何があろうと従うが、ボスの家に行くなら、手ぶらでは格好がつかない。
なんとか身体が空いたときには、すっかり夜が更けていた。
やっと見つけた花屋に慌てて飛び込むと、紅茶のような色の薔薇があったので、それをあるだけ買ってきた。
勿論、今日が何の日かということは、ちゃんとわかっている。
日付が変わらないうちに、急いでボスの屋敷へと向かった。

「遅くなってしまい、申し訳ありません」
「構わない。約束を破ったわけじゃないからな」
乾から赤い薔薇を受け取り、ボスは優雅に微笑んだ。
彼は、まだ三月だというのに、ごく薄い生地のシャツを着ていた。
寝室に向かって歩く、薄い背中が寒そうに見えた。

「好きな場所に座って、くつろいでくれ」
「ありがとうございます」
いつも座っている布張りの椅子に腰を下ろした。
ボスは、乾が渡した薔薇をそっとテーブルの上に置く。
これから、いつものように自ら花瓶に挿すのだろう。

いつも手塚は、木製のテーブルの上か、白いカーテンのかかった出窓に薔薇を飾る。
なんとなく出窓の方に目をやると、そこには真っ白な薔薇が生けてあった。
どきりとした。
あの花は、自分が贈ったものではない。
乾が前回贈った薔薇は、白ではなかった。

誰かから贈られたものだろうか。
嫉妬したりはしないが、贈り物がだぶってしまったことが、少しショックだ。
無言で、じっと窓際の薔薇をみていることに、手塚も気がついたらしい。
赤い薔薇を挿したガラスの花瓶を、白い薔薇をさしたミルク色の花瓶の隣においてから、ゆっくりと乾の方を振り返った。

「こうやって、ふたつ並べると、より綺麗に見えるな。そう思わないか」
「ええ。そうですね」
確かに、紅茶のような赤い薔薇と、真っ白な薔薇のコントラストは、艶やかだ。
この偶然には、感謝してもいい。
そう思ったとき、手塚がふと口元を緩めた。

「この薔薇は、お前のために選んだんだ」
優雅な指先が白い方の薔薇に触れた。
「え?今なんと?」
「いつも貰ってばかりだからな。たまには、俺から贈らせてくれ」
一番大きく開いた花を乾の正面になるように向け、手塚は静かに微笑んだ。

「私に、ですか」
「そうだ。帰るときは、忘れずに持っていけ」
バレンタインに薔薇を贈ったのは、確かに自分なのだから、今日という日に手塚が何かくれるつもりになっても、おかしくはない。
だが、まさか薔薇を贈られるなんて、予想もしていなかった。
今頃になって、俄かに鼓動が早くなる。

「あの、大変嬉しいのですが」
「なんだ?」
「お恥ずかしいけれど、私の家には花瓶がないんです」
ボスとは違って花を飾るなどという趣味は、乾にはない。
極端に言えば、住むところなんて、風呂とベッドさえあればそれでいいと思っていた。

「花瓶なんかなくても、どうにでもなるだろう。バケツにでも挿しておけ」
馬鹿にするでもなく、手塚は真顔でそんなことを言う。
「とんでもない。そんなことは出来ません」
そもそも、我が家にバケツがあったかさえ、あやしいくらいだ。

「しかたないな」
ふふっと小さく手塚の息が漏れる。
「この薔薇が枯れるまで、毎日ここに見に来ればいい。どうだ?」
「…よろしいのですか?」
「勿論だ」
「本気にしますよ」

乾が念を押すと、ボスは目を細めて笑った。
咲き誇る花に負けないくらいに、優美な表情だった。
「これはお前の薔薇だ。好きにしたらいい」
薔薇のことを言っているのだと、わかっていても、好きにしろと言われると、愚かしいほどに胸が騒いだ。

「それに、この赤と白の薔薇を、離してしまうのは可愛そうだ」
そう思わないかとの問いかけに、乾は大きく頷いた。
最初から、そうあるべきだったかのように、映える赤と白だ。
熱い紅茶とミルクのように。

「今日はゆっくりしていけるんだろう?」
「ええ」
手塚は薔薇から離れ、乾の目の前に歩いてくる。
「何か、暖かいものでも飲もう。何がいい?」
「…そうですね。できれば紅茶を」
ボスの部屋で、紅茶を飲んだことは一度もない。
だけど、今日はそれが欲しかった。

「わかった。ミルクも用意させよう」
――ボスには、何もかもお見通しなのだ。
端だけが僅かに持ち上がった形のいい唇に見惚れながら、乾はボスには一生勝てないことを実感していた。

2008.03.28

マフィアWD話。実は、オフリミWDよりも前に書き出した。途中で詰まって時間がかかってしまった。