FOOLS2

短くて軽い電子音がした。
日付が変わったのだ。

ベッドサイドの時計に手を伸ばすと、液晶の文字が時刻と日にちを表示させていた。
手塚をベッドに引きずり込んだのが、確か11時前だったはずだ。
すでに一時間が経過し、日付をまたいだことになる。

「日付が変わったのか」
手塚は俺を見上げて、少し掠れた声で言った。
そんな声になったのは、半分くらいは俺のせいだ。
あとの半分は、旅の疲れだろうと思う。
バスや電車で気軽に来られる場所に、手塚は住んでいない。

「ああ、うん」
時計を元に戻し、またベッドに潜り込むと、手塚の肌が触れる。
汗が引き始めた手塚の肌は、少し冷えていた。
裸の背中に手を回し抱き寄せると、手塚はくすぐったそうに目を細めた。

久しぶりに手塚が俺のところに来たのは、三月最後の日だった。
長い付き合いの俺たちに、面倒な前置きは必要ない。
普通に食事をして、入浴を済ませたら、当たり前のようにベッドに直行する。
いちいち、今日はどうしようかなんて、話したりしないのだ。

三ヶ月ぶりに抱く裸の身体は、たまらないくらい愛しい。
一時間かけてたっぷり味わったけれど、まだ触り足りないくらいだ。
大人になっても、相変わらず肌のきめが細かくて、手のひらに吸い付いてきた。
「覚えているか」
腕の中の手塚が、くすりと笑った。

「なに?」
「お前と初めてキスをしたのは、4月1日だった」
「もちろん覚えてるさ」
「本当にか?」
疑わしいと口にするかわりに、探るような目で俺を見る。

「うん。本当」
忘れようとしたって、そんなことできる筈がない。
手塚からキスされるなんて、あの頃の自分には、とても信じられない出来事だった。
まさか、10年近くたっても、こうやって隣にいられるなんて夢にも思わなかった。
そのきっかけをくれたのが、手塚本人なのだ。
忘れるなど、不可能だ。

「てっきり殴られると思ったんだよなあ、あのとき」
「そっちの方がよかったか?」
「まさか」
俺の言葉に、手塚が笑う。
笑ったままの唇に、キスをした。

初めてのときは、二人とも眼鏡をかけたままだった。
多分フレーム同士が、ぶつかったりしたのだろうが、あまり良く覚えていない。
今は、邪魔するものはないから、思う存分唇の感触を楽しめる。
角度を変えたり、舌を絡ませたりするうち、また身体の内側に熱がこもりはじめるた。
もう一度、と思ったところで、忘れていたことを思い出した。

「そういえば、聞きそびれてたんだけど」
手塚の濡れた唇が動く。
「なんだ」
「手塚は、いつまでこっちに居られるんだ?」
「明日、向こうに戻る」
「え?本当に?」
「嘘だ」
明日と言われて驚いて、その後の台詞にもっと驚く。

「え?あれ?」
「だから、嘘だ。今日は4月1日だぞ」
起こしかけた俺の方に手をかけて、手塚が馬鹿にしたように息を吐いた。
「あー。そうでした」
ちょっと考えればわかることだが、手塚に関しては、どうも馬鹿になってしまって困る。
でも、今は嘘でよかったと素直に喜ぶだけだ。

「で、いつまで居られそう?」
「一応、一週間の予定だ」
「本当だろうな」
「ああ」
そっけない返事だったが、俺は心から安堵した。

「良かった。じゃあ、遠慮しなくていいんだな」
「俺はかまわない。でも、お前は大丈夫か?」
これは気遣いの言葉じゃない。
プロのアスリートの体力に、ついてこられるのかと俺をからかっているのだ。

「どうだろう。ちょっと自信がない」
「馬鹿か、お前は。こういうときは、嘘でも、あると言え」
今度は、馬鹿と来たか。
でも、確かに馬鹿だからしょうがない。

「じゃあ、言い直そう。今夜は寝かせない。……これでいい?」
「まあ、いいだろう」
手塚は、澄ました顔でそう言い捨ててから、ふっと笑みを浮かべた。
艶めいているのに、どこか優しい顔だった。

いつのまに、こんな顔ができるようになったのか。
あの春の日に、切羽詰ったようなキスをした手塚の表情を思い出す。
怒ったような、泣き出しそうな、それまで一度も見たことのない顔だった。
でも、きっと手塚の中身は、今も昔も変わっていない。

不器用なくらい真っ直ぐで、欲しいものから目をそらしたりしない。
だからきっと、俺たちはこうしていられるのだ。

「手塚」
「なんだ」
「キスしていい?」
「馬鹿か。いちいち聞くな」
「うん。馬鹿なんだ」
多分、俺はもっともっと馬鹿になる。
でも、それでいい。
相手が手塚なら、俺はいくらだって馬鹿になれる。

手塚は眼鏡のない顔で、静かに微笑んだ。
そして、俺の唇にそっと自分の唇を重ねてきた。

今夜、何回目のキスだろうか。
数なんてもう覚えてない。
いちいち瞬きの回数を記憶しないように。



2011.04.03

FOOLSの数年後。手塚はプロのテニスプレイヤー。乾は一般人といういつものパターン。