Greencurtain

猛暑を通り越した酷暑などという言葉は、いつから普通に使われるようになったのか。
少なくとも、自分が子どもだった頃には、聞いた覚えがない。
今年の夏の暑さは、酷という漢字がぴったりの厳しさだ。
夏は嫌いな季節ではないはずなのに、早く秋が来てくれと願うばかりだ。
だが、名ばかりの立秋が過ぎ、白露が近づいてきたというのに、いっこうに夏は終わってくれそうもない。

小学生の頃は、夏が来るのがひたすら待ち遠しかった。
親がうるさく言うから帽子くらいは被ったが、炎天下に飛び出すのを少しも苦痛には思わなかった。
そういえば、紫外線対策なんてのも、今ほど神経質ではなかったように思う。
テニスを始めてからは、夏の記憶には、ラケットとボールがセットになっている。
とにかくテニスが楽しくて、一日中でも、コートを走り回っていたかったくらいだ。
夏休みの時期が一年で一番好きで、このまま秋がこなければいいと願っていた。

それが今じゃどうだ。
連日の暑さに、情けないくらいにへこたれている。
ここ最近は、しつこく続いた残暑のせいで、夏バテの症状まででてきてしまった。
二日ほど会社を休んだおかげで、どうにか普通に生活できるようにはなったが、出勤する気力がわかず、在宅で仕事をこなしている有様だった。
乾の勤務している会社は在宅勤務が認められていて、もともと月の三分の一くらいは自宅で仕事をしていたので、同僚にあまり迷惑をかけずに済んだのは幸いだった。

今日も出勤はせずに、朝から自分の部屋で仕事をしている。
いつもより早起きしたのは、まだ万全ではない体調を考え、少しでも涼しいうちに仕事をしようと考えたからだ。
実際にやってみると、今日は比較的湿度が少ないこともあり、なかなか快適だった。
麦茶を飲みながら、2時間ほどPCに向かうと、予想以上に仕事がはかどった。
きりのいいところで手を止め、固まった首を左右に曲げると、こきこきと音がした。

「ちょっと疲れたな」
誰もいない部屋で仕事をしていると、知らず知らずのうちに独り言を言ってしまう癖がある。
愛用のステンレスのマグボトルの蓋をとり、口に運ぶと、すでに中身はほとんど残っていなかった。
「丁度いい。少し休むか」
空になったボトルを手にして、ゆっくりと立ち上がる。
三日前までは、勢いよく立ち上がろうとすると、ふらふらしてしまっていた。
まったく情けない話だ。
乾は、ふうと大きく息を吐いてから、居間へと向かった。

古い和室には、日の差さない場所があちこちにできる。
風通しもいいので、昼間でも比較的涼しい。
居間には手塚がいると思ったのだが、姿が見えない。
だが、庭のあたりから水音が聞こえてきたので、縁側へと出てみた。
一瞬、日差しの眩しさに目がくらんだ。

「どうした?休憩か?」
目を細めて庭に目を向けると、手塚がホースで水を撒いていた。
「うん。ひとやすみ」
飼い犬のジェットが、水の落ちる先で楽しそうに跳ねている。
冷たくて気持ちがいいのだろう。
水浴びが好きな犬なのだ。

「お前にもかけてやろうか?」
水を撒き散らしながら、手塚が笑っている。
頭には、麦藁帽子を被っていた。
のどかな風景に、乾も笑って答えた。
「いや、遠慮しておくよ」
縁側の日陰になっている場所を選んで座ると、涼しい風が吹いてきた。
気化熱の効果かもしれない。

勢いよく撒かれた水が、小さな虹を作っている。
洗われたばかりの木や草花達は、どれも生き生きとした緑色を見せてくれて、目に心地良い。
庭付きの家は、いいものだなと水の匂いを嗅ぎながら、ぼんやりと考えた。

引っ越してきたばかりのころは庭も荒れ放題で、乾の手には負えない状態だった。
業者に依頼して最低限は整えてもらったが、こうやってそれなりの姿になったのは、手塚のおかげだ。
庭いじりはしたことがないと言いながらも、本で調べたり実家に相談したりしながら、まめに手入れをしてくれた。
今では、元々植わっていた木や花だけでなく、少しずつ手塚の好きな植物も増やしている。
リンドウやシランのような日本に自生する山野草を好むのが、山登りが好きな手塚らしい。
自宅の庭に花が咲く喜びを、乾はここで初めて知った。
犬だろうと植物だろうと、命あるものが育っていく様子を見るのは、本当に楽しく幸せな経験だった。
地に足をつけて生きるというのは、こういうことなのかもしれない。

ふと気づくと、はしゃぎすぎて疲れたらしい犬が、乾の足元にぺたりと座っていた。
手を伸ばしすと、指先を舌で舐める。
きっと挨拶のつもりなのだ。
水撒きを終えた手塚が、首にかけたタオルで顔を拭きながら、犬を挟むようにして縁側に腰を下ろした。
前髪が少し濡れているようだが、気にしていないようだ。
端正な見た目に反して、手塚は意外に大雑把な面もある。

「お疲れ様」
乾が声をかけると、手塚は犬の頭をなでながら頬を緩めた。
「水遊びをしているようなものだからな。疲れるどころか楽しい」
「お前の方こそ、大丈夫か?」
夏バテで寝込んだりしたのは初めての経験で、手塚にも随分と迷惑をかけてしまった。
もう心配ないと示すために、乾はつとめて明るい声を出した。

「ああ、うん。今日は調子がいいよ」
「確かに顔色はいいようだ」
「今日は比較的湿度が低いし、風があるから過ごしやすいしね」
「そうだな」
「ちょっと待っててくれ。今、麦茶を持ってくるから」
「ああ、それはありがたいな。待っている間に、ジェットにも水をやっておく」
頼むと言い残して、乾は台所に向かった。

そういえば、自分も麦茶を飲むつもりだったことを、今頃になって思い出した。
夏になってから、一番よく飲むのが麦茶で、欠かさず作り置きして冷やしてある。
麦茶の入っているレトロなデザインのポットを、冷蔵庫から取り出し、大きめのグラスに注ぐ。
このグラスも、どこか昭和の匂いのする形だ。
竹のコースターと一緒に木の丸盆に載せ、縁側へと引き返した。

「お待たせ」
「ありがとう」
手塚の足元には水を飲み終えたらしいジェットが、おとなしく座っていた。
犬も疲れて一休みしているのだろう。
コースターにグラスを載せて、手塚に手渡す。
いつものように、いただきますと言ってから、グラスに口をつけた。
それを見てから、乾も冷たい麦茶を味わった。

「美味い」
「うん。美味しいな」
手塚の短い感想に、乾も笑って同意した。
ちゃんと煮出した麦茶は、香りがよく味も深い。
以前はペットボトルか、良くてパック入りの水で出すタイプを飲んでいた。
こんな風に、コースターまで用意するような生活とは、長く無縁だった。
今はもう、ペットボトルの麦茶を飲むなんて、味気なくて寂しいとさえ思う。
この家に越してきてから、丁寧に暮らすということを、知った気がする。

「体調はどうだ?」
尋ねる手塚の顔は、こんな季節でも、どこか涼しげだ。
「お蔭様で、調子がいいよ。やっぱり家はいいな」
「この家は涼しいからな。扇風機があれば、なんとかしのげる」
手塚の言うとおり、この家はとても風通しがいい。
よっぽど気温が高い日でなければ、扇風機を使うだけでもどうにか過ごせるのだ。

「夏の間、ずっと家で仕事をしていたら、夏バテなんてしないだろうな」
冗談じゃなく、今年の暑さを体験したら、本当にそうした方がいいのではないかと思う。
今回、寝込むほどの夏バテになったのは、連日の酷暑と忙しさのピークが重なってしまったのが原因だ。
普段は内勤がメインの乾だが、運悪くそんなときに限って、社外ミーティングやら日帰り出張が重なってしまった。
クールビズを導入している社内でなら、軽装で仕事できるが、社外の仕事の場合はそうもいかない。
炎天下をスーツで歩いて汗だくになり、屋内に移動すれば今度は冷房で冷やされる。
温度変化には弱い方ではなかったはずだが、さすがに今年は例外だったようだ。
そんな日を数日過ごしただけで、身体が音を上げてしまった。
年をとったからと言ってしまえばそれまでだが、以前はこんなに暑さが身体に堪えなかった。
暑さの質が、子どものころ体験したものとは、変わってきたように感じる。

昔の家は、建てられた土地の気候風土に合うよう作られている。
最初にこの家で夏を迎えたとき、なにもしなくてもそこそこ涼しいのに驚いた。
むしろ、冬が寒いんじゃないかと心配したが、それも今のところどうにかなっている。
というより、あれこれ工夫して暑さ寒さを乗り切ることも、季節の楽しみになってきた。

今年は夏を迎える前から、暑さ対策のひとつとして、流行の緑のカーテンを取り入れようと話し合っていた。
緑のカーテンと言えば、ゴーヤや朝顔がポピュラーかと思う。
我が家が採用したのは、フウセンカズラだ。
昨年の夏、それを植えたという手塚の実家から、種を分けてもらったのだ。
名前を言われても、すぐにはぴんと来なかったのだが、ネットで調べると見たことのあるものだとわかった。
これもここ数年でよく見かけるようになった気がする。

カズラの名前どおり、つる性の植物で、夏には小さな白い花をつける。
花が終わると、ほおずきに似た小さな風船のような実がなるのが特徴だ。
緑色の小さな風船が、すずなりになるのがかわいらしい。
丈夫で育てやすいというのも、初めての挑戦にはもってこいだろう。
もらった種から育てたフウセンカズラは、順調にすくすくと育った。
ギザギザの葉を増やし、小さな花を咲かせ、緑色の風船を沢山作り、我が家に心地よい日陰を作ってくれた。
9月の声を聞いても、実はまだ数え切れないくらい残っている。
この分だと秋が終わるころには、来年分の種がいっぱい取れるだろう。

古い家とは言え、ここで暮らし始めたばかりのころは、「自分のうち」という感覚にはなれなかった。
例えて言うなら、親戚の家に泊めてもらっているような感じだった。
親しみはあるが、自分のものではないような──。

でも、手塚と暮らし始め、やがて犬も増えてきた頃から、少しずつ自分の家という実感がわき始めた。
二人と一匹の生活をどうやって心地よいものにしていくか、時間をかけ手探りしながらここまできた。
今では、もうここが終の棲家かもしれないとまで思っている。

きっと家というものは、建っているだけでは「家屋」ではあっても「家」とは呼べない。
そこに人が住み、生活することで、「家」になる気がする。
「家」はhouseで「うち」はhomeだと、ときどき目にすることがある。
それならば、この古い家は、間違いなく自分にとってはhomeだ。
買って手に入れた古い家屋を、手塚とふたりで「うち」に作り直した。
この夏、風に揺れる沢山のフウセンカズラの実を実ながら、乾はそう思ったのだ。

「手塚、フウセンカズラの花言葉を知ってるか?」
「いや、知らない」
「そうか。じゃあ、今度調べるといいよ」
「お前は知っているのか?」
「まあね」
手塚は、いかにも何かひとこと言いたいという顔で乾を見ていたが、実際に口にすることはなかった。
言い返したら負けだとでも考えたのか。

「そのうち調べておく」
「うん」
手塚と乾の間をすり抜け、沢山の風船を揺らした風は、真夏とは少し違っていた。
まだまだ暑いけれど、次の季節が確かに近づいてきているのだ。
これから迎える季節を、手塚と犬と、どうやって過ごそうか。
このあたりの秋は本当に綺麗で、とても気持ちがいい時期だ。
そして秋は手塚の生まれた季節でもある。
テニスをやめてしまった今では、一年で一番好きな季節かもしれない。

本格的な秋が来るまでは、まだ少しかかりそうだ。
緑のカーテンには、もうちょっと頑張って、日陰を作ってもらおう。
お返しには、たっぷりの水をあげなくては。

水と光と愛情と。
人も犬も植物も、そうやって日々を生きていく。
グラスいっぱい分の麦茶を、最後の一滴まで飲み干して、乾はゆっくりと立ち上がり庭を眺めた。
夏の名残を残した空を、蜻蛉が一匹飛んでいった。


2012.09.15(2012.09.18加筆修正)

フウセンカズラの花言葉は、ここにには書かないでおきます。

なんだかこの二人、遠まわしにプロポーズしあっている気がする。