無精ひげ

事前に連絡を遣さなくても、あの男が顔を出しそうな日は、なんとなくわかる。
今日も、朝からそんな気がしていた。
期待ではない。
純粋な、予感だ。
そして、予想通りに、約三週間ぶりに会っ乾の顔には、見慣れないものがあった。

「なんだ、そのひげ」
手塚がそう言い出すことを、最初から予想していたのだろう。
乾は、笑いながら玄関で靴を脱いでいる。
踝まであるショートブーツなので、ちょっと手間がかかっているようだ。

「夕べは家に帰れなかった。徹夜で仕事してたから、剃っている暇がなかったんだ」
いつもは耳に心地よい声が、今は少しざらついている。
そうなった原因は、無精ひげと同じだろう。
脱いだばかりの黒いコートを手塚に渡し、乾はそのままリビングにあるソファに腰をおろした。
どすんという音が聞こえてきそうな座り方だった。
それだけでも、乾がどれだけ疲れているのかが推測できた。

「夕食は、もう済ませたのか」
「いや、まだ。仕事を全部片付けて、まっすぐここに来たから」
乾はソファに座ったまま上着を脱ぎ、ネクタイを緩めていた。
「そうか。有り合わせでいいなら、すぐ用意するが」
「ああ、うん。頼んでいいかな」
「じゃあ食事ができる前に、シャワーでも浴びたらどうだ?」
家に帰っていないなら、風呂にだって入ってないのだろう。
食事だって、ちゃんと取っていたかどうかあやしいものだ。

「ありがとう」
乾は、ほっとしたような顔で微笑んだ。
だが、すぐに意味ありげなにやりとした笑い方に変わる。
「でも、その前に」
自分のとなりに開いた場所を、乾は、大きな手でぽんぽんと叩いた。
どうやら、ここに座れと言いたいらしい。
逆らう理由もないので、言われるままに乾の横に座ってみた。

無精ひげを生やした男は、手塚の顔をじっと見つめ、やがてゆっくりと顔をほころばせた。
「ああ、手塚だ」
「当たり前だ。お前は誰の家にいると思っているんだ」
「そりゃそうだけど」
笑いながら乾は、両腕を手塚の首に絡ませてきた。

「やっと触れた」
普段よりも低く声が、耳にくすぐったくて、少し首を捻ってしまう。
そこを、乾のかわいた唇が掠めた。
「ここ数日、手塚成分が切れて、禁断症状が出てたよ」
「たとえば?」
自分の声が少し掠れたのは、無理な体勢だったからというだけではない。
乾がそれに気づかないことを願う。

「ん。イライラするとか、集中力が落ちるとか、やる気が起きないとか」
「それは、単に仕事のし過ぎで、ストレスがたまっているんじゃないのか」
くすりと乾が笑う。

「それだけじゃない。胸も苦しい」
首に回されいた手がゆっくり移動し、今度は背中を抱かれる。
「寂しくて死にそうだった」
「嘘をつくな」
「嘘じゃない。今も、死にかけてる」

ワイシャツの上から乾の心臓の場所を探して、手を置いてみた。
手のひらには、確かな鼓動が伝わってきた。
「大丈夫だ。ちゃんと心臓が動いている」
「手塚成分が効いてきたんだな。即効性があるから」
しばらくそのままの状態で手塚を抱いていたが、何かを思い出したように顔を上げた。

「あ、ごめん。俺、汗くさいだろう?」
「気にならない」
乾の汗の匂いには慣れている。
平気だということを伝えたくて、今度は手塚の方から抱き返した。

久しぶりに感じる乾の重さが心地良い。
乾も同じように感じているのだろうか。
お互い黙ったまま抱き合っていたが、乾の身体は少しずつ滑り落ちていく。
「ごめ、ん。眠くなって…きた」
「いい。我慢しないで、寝ろ」
「ん。ありが…とう」

その言葉を合図に、完全に力が抜けてしまった身体を受け止めて、そっとソファに横たわらせてやった。
クッションを頭の下に入れてやると、すぐに深い眠りに落ちてしまったようだった。
よっぽど疲れていたのだろう。
乾が、こんな風に眠り込んでしまう姿を見ることは、滅多にない。

眼鏡を慎重に外し、テーブルの上に置き、改めて乾の顔を眺めてみた。
肌は少しかさついていて、あまり顔色は良くない。
最後に会ったときよりも、あごが少しとがって、痩せたようにも見える。
見慣れない無精ひげを、そっと触ってみた。
ちくちくとした感触が、なんだか変な感じがする。

疲れているなら、自分の家に帰ればいいのに。
ソファで眠っても疲れが取れないだろうに。
寝不足なところで、身体を冷やしたりしたら風邪を引きかねない。
手塚は自分のカーディガンを脱ぎ、乾の身体にかけてやった。
これだけじゃきっと寒いから、あとで毛布も持ってこなくては。
でも、ちゃんと寝るならベッドに入らなきゃだめだ。

一時間だけ。
そう一時間だけ、ここで眠らせてやろう。
乾が眠っている間に、食事を作り、バスタブに湯をためる。
そして洗い立てのパジャマも出してやろう。
栄養があって美味しいものを食べて、ゆっくり風呂に入って疲れをとって、それからたっぷりと朝まで眠ればいい。
疲れた身体を引きずって、自分に会いに来た男に、それくらいしてやってもいいだろう。

あと数時間でなくなるだろう乾の無精ひげを、手塚は、もう少し見ておくことにした。
色白で端正な顔立ちの乾が、今はやけに男くさい。
だが、それも案外悪くない。

「意外と似合ってるじゃないか」
手塚が笑いながらそう呟いても、今の乾には聞こえるはずおなかった。

2009.11.23

この間絵にした「無精ひげ」ネタ。社会人設定。
仮タイトルは「ひげと母音」でした。われながら、馬鹿だ。