期間限定

乾と初めて寝たのが2月14日だったのは、ただの偶然だった。
15のときだ。
確かとても寒い冬だった。
偶然とはいえ、「初めて」が覚えやすい日だったばかりに、2月14日が近づくと、なにかしらあの日のことを思い出したりする。
そのたびに、くすぐったい気持ちになったり、なんとなく落ち着かなくなったりしてしまう。
乾とは長い付き合いになったが、2月14には必ず会うというわけでもない。
ひとりで忙しく過ごしたこともあれば、そばにいたときもあった。
わざわざ無理に時間は作らないが、可能ならば会う。
乾との距離感は、ずっとそんな感じだ。
だが、少なくともその日に乾のことを思い出さなかったことは、一度もなかったはずだ。
もし初めて寝た日が2月14日ではなかったから、こんな風に思い出しただろうか。
偶然というのも、なかなか侮れない。
手塚は、10年後に乾の話を聞かされるまで、本気でそう思っていたのだ。

「え、手塚、あれが偶然だって本当に信じていたのか?」
「だって、そうだろう?」
乾は、一瞬きょとんとした顔で固まったかと思うと、次の瞬間にはソファの背にもたれかかり肩を揺らして笑い始めた。
ついさっきまで、耳に心地よい落ち着いた声で、昔の話をしていたのと同じ人間とは思えない豪快な笑い方だ。
手塚の方は、その反応についていけず、乾が笑い終えるのを待つしかなかった。
この状況は、正直言って非常に面白くない。
何が起きたのか理解はできていないが、笑われているのが自分だということはわかるからだ。

手塚は他にすることもないので、ソファの前のテーブルの上に置かれた白い皿に手を伸ばした。
何の飾りもないシンプルな皿に載せてあるのは、レーズンの入ったチョコレートだ。
いわゆる板チョコタイプなのだが、かなり厚みがある。
それを乾が食べやすいようにと、いくつかに割って皿に載せたのだ。
久しぶりに乾の部屋に訪れた手塚に、コーヒーとともに出してくれたのが、このチョコレートだった。
そういえば、今日はバレンタインだったなと思い、うっかり10年前の話なんか始めてしまったのが、そもそもの始まりだった。
露骨な話は避けながらも、あの頃の思い出話をゆっくり話すのは悪い気分じゃなかった。
美味しいコーヒーとチョコレートによるリラックス効果もあり、ついあの「偶然」のことも口にしてしまったのだ。

──まったく。
悔し紛れに、ひとかけ味わったチョコレートは、今の気分とは無関係に美味だった。

手塚が不機嫌な顔をしているのにようやく気づいたのか、乾はごめんと言いながら身体を起こした。
といっても、まだ顔は笑ったままだ。
「悪かった。笑いすぎだな、俺」
「とりあえず、そこまで笑う理由を説明してもらおうか」
手塚が睨みつけると、乾は目を細めて微笑んだ。
昔から、手塚が怒ると喜ぶ男なのだ。

「まさか、手塚が10年もあれを偶然だと信じてたとは思わなかったんだよ」
「少なくとも当時は『バレンタインだから今日やろう』とは言わなかったと思うが」
「言わないよ、そんなこと」
軽く笑った乾は、テーブルのチョコレートに手を伸ばした。
人よりも長い指が、ひとかけらを摘み上げた。
手塚にわざと見せ付けるように、それをゆっくりと口に運ぶ。
気障な仕草だが、様になっているのがなんとなく口惜しい。

「なら、たまたまバレンタインだったと思うのは自然だろう」
「そんなわけないだろ。だって2月14日だよ?出来過ぎじゃないか」
「当時の俺に、バレンタインなんてさほど意味のある日じゃなかったんだ」
「え?でもあの日、ちゃんと一緒にチョコレートも食べたろう。あれで、薄々気づいてたと思ったんだけどな」
「チョコレートなんて食べたか?」
「覚えてないか?これは季節限定のチョコレートだよって話しながらさ」
言われてみたら、なんとなくそんな気もしてきた。

「もしかして、レーズンの入っているチョコレートか」
ぱっと乾が嬉しそうな顔になる。
こういう顔は、中学のときと全然変わっていない。
「うん。そうそう。なんだ覚えているんじゃないか」
「いや、今思い出したんだ」

そうだ。
あの日の乾も、今日のようにコーヒーと一緒にチョコレートを出してくれた。
特別なものではなく、普通にコンビニやスーパーで売っていそうなものだった。
ただ、冬季限定のチョコレートだと、乾が教えてくれた。
「レーズンが入っているのと、洋酒の味がするのと二つ食べたんだったか」
うんうんと乾が頷きながら答えた。
「そうだよ。ピンクの箱と、緑の箱に入ってるやつだ」

ああ、そうだった──。
いわれてやっと記憶がよみがえってきた。
普段あまりチョコレートは食べないが、あのときはやけに美味しく感じたのだった。
でも、チョコを出してくれたのがバレンタインだからなんて、少しも気づいていなかったと思う。
そんな余裕は、多分あの頃の自分にはなかったろう。

当日、どうして乾の家に行くことになったのか、経緯はよく覚えていない。
ただあの頃、乾と自分はすでに中学卒業後の進路がほぼ決定していて、自由になる時間があったのは確かだ。
恐らく、乾から家に来ないかと誘われたのだろう。
部活を引退してから、卒業するまでの間が、一番乾と長く顔を合わせていた時期だったはずだ。
部員同士という関係を離れて、一対一で向き合う乾は、当時の自分にはとても新鮮だった。
元々乾に対して興味や好意があったから、近づいたのだろうと思う。
だが、あの時間が、より乾に強く惹かれるきっかけになったのは、間違いない事実だ。
惹かれ始めていた相手に誘われた当時の自分には、きっと断る理由なんてなかったろう。

「色々と思い出してきた」
その言葉を聞いた乾は、わずかに首をかしげて手塚を見ていた。
「ふーん。俺なんて、今でも克明に覚えているのにな。手塚は忘れてたんだ」
「生憎、お前ほど記憶力がよくないんだ」
「それは違うな。あの頃の俺は必死だったんだ。どうにか手塚に近づきたくて。だからよく覚えている」
「結構、近かったと思うが」
「いや、もっともっと近づきたかった。手塚にとって、特別な存在になりたかったんだよ」
そういう乾は、もうさっきのようには笑っていなかった。
遠い日々を懐かしむような、優しくて静かな目をしていた。
「だから、付け入る隙をいつも探していたし、チャンスがあれば絶対逃さないって思っていたよ。あの日は、俺にとってはまさにそういうときだった」

――本当に?
まっさきに頭に浮かんだのは、その言葉だった。
少なくとも10年前の乾は、手塚の目にはそうは見えていなかった。
でも、あの頃の乾と自分は、お互い好意を持っていることは、薄々わかっていたと思う。
ただの友情とは違う意味合いだということも含めて、だ。
だが、乾がそこまで自分に対して、強い想いを持っているところまでは気づいていなかった。

「そんなに好かれてたとは知らなかった」
正直に打ち明けると、乾はくすっと小さく笑った。
「言わなかったからな。というより、どう言っていいのかわからなかったというのが正解だな」
「でも、お前は行動した」
「切羽詰ってたんだ。手塚は俺の前からいなくなるってわかってたから」

10年経ってから、静かな声で聞かされたことは、手塚に小さな驚きを与えた。
同時に、不思議なくらいに、すとんと腑に落ちた。
10年前、手塚の目に映る乾は、とても大人だった。
でも、そんなわけはない。
どんなに大人びて見えても、15歳はやっぱり子どもだ。

わかっていても、見えていても、言葉にできないこともある。
15の乾と手塚が、先に進むことはそう簡単ではなかった。
だけど、なにかせずにはいられなかった。
そうして、乾が自分にしかけたのが10年前の2月14日だ。
あの一日がなければ、そのまま卒業して終わりだったかもしれない。
こうやって、昔話をしながらチョコレートを味わうことだっってなかったのだ。

「手塚は、俺がどれだけ手塚のことを好きかわかってないんだよ」
「そうだな、きっと」
乾の言葉を手塚は否定しなかった。
でも、乾も知らないだろう。
手塚にとっての乾は、過去にしてしまえるような存在じゃなかった。
なぜだか知らないが、一度だって乾のいない未来を考えたことはない。
日本を離れた後も、乾とのつながりは切れないと、確信していた。
これは乾が知らないことだ。

「10年前が偶然じゃなかったのは理解した。ところで、今日のチョコレートがレーズン入りなのも、わざとか?」
チョコレートをひとかけらつまみ、乾に見せてから口に運ぶ。
ビターな味わいのチョコレートに、洋酒のきいたレーズンがよく合っていた。

「いや、これは本当に偶然」
「また10年後に笑うつもりじゃないだろうな」
「そんなことはしないよ」
それよりも、と乾は改まったような口調で言い、手塚の方に向き直った。

「10年後も、俺と会ってくれるのか?」
「多分な」
本当は、『多分』なんかじゃない。
手塚の未来には、必ず乾がいると信じている。

「じゃ、今夜は10年後にも思い出せるようなことをしようか」
乾は、少し声のトーンを落として言った。
「なんの話だ」
「特別な夜にしようって誘ってるんだよ」
返事をするより先に、思い切り笑い出してしまったのは、わざとではない。
本当に、おかしかったのだ。
「お前、本気で、言っているのか」
笑うのをこらえながら、なんとかそれだけ言い返した。
切れ切れになってしまったから、ちゃんと乾に伝わったかどうかはわからない。
乾の方は、憮然とした顔で、眼鏡のずれを直していた。

「さっきの仕返しか?そんなに笑わなくてもいいじゃないか」
「確かに10年経っても思い出せるな。お前は、あの日とんでもないキザなことを言ったって」
「ひどいな。俺は本気で言ってるのに」
手塚につられたのか、乾もいつのまにか笑っていた。

好きだという簡単な言葉さえ、10年前は言えなかった。
それは乾と自分にとっては、寝るよりも難しかったのかもしれない。
この10年間だって、何度も会って身体を重ねたのに、好きだと伝え合ったことはない。
わかっていないと、現在形で語った乾に、今度は手塚が行動を示す番だ。
隣に座る間抜けづらの男の首根っこを捕まえ、思い切り引き寄せた。

「え、なに」
驚く顔をする乾の顔に、強引に唇を重ねてやった。
一瞬、乾の身体が緊張したが、すぐに力が抜けた。
重ねるだけでは物足りなく、軽く唇を噛んでみる。
ふっと笑うような気配がしたが、いつもの癖で目を閉じてしまったので、乾がどんな顔をしているのかはわからない。
でも、手塚の背中に回された手の動きが、この状況を楽しんでいるような感じがしたので、手塚も気の済むまでキスをした。

手塚が唇を離すと、乾の手もゆっくりと背中から離れていった。
「どうした?珍しいな」
「特別な夜なんだろう?普段しないことをしただけだ」
「なるほど。びっくりしたけど、納得したよ」
びっくりしたと言いながらも、いつもと少しも変わらない顔で笑う。
乾はそんな男だ。

「で、続きは?まさかこれで終わりじゃないだろう?」
「さあ。いつにするかな」
「10年後とか言わないよな」
「そこまで気は長くない」
「ならいい。その気になったら、いつでも言ってくれ」
乾は、さらっと言うと、コーヒーのおかわりを淹れにキッチンへと向かった。
ついさっき、あんな気障な台詞を言っておきながら、あっさりとしたものだ。
乾のこういうところが、昔から気に入っていた。

15のときから10年。
中途半端な距離を保ったままの関係が続いてきたのは、それなりに心地良かったからだ。
ちょっと理由ありの『友人』との、面白い時間だった。

だけど──。
きっと10年後に思い出す。
目の前の男が、身体のつきあいもある友達から、恋人に変わった夜のことを。
さらに10年経った時、乾と自分の何かが変わっているのだろうか。
いや、おそらくはそんなに変わってもいないだろう。
乾との距離感は、今くらいがちょうどいい。
だから、年に一度のバレンタインくらいは、甘い時間を過ごすのも悪くない。
そのときにはきっとまた、期間限定のチョコレートを味わっているのだろう。


2013.02.27

中学生のとき食べたのは「ラ○ー」と「バッ○ス」。大人が食べたのはロ○ズの「コニャックレーズン」。
どちらも季節限定です。それを書きたかっただけなのに、どうしてこうなった。