怒らない人
ほぼ部活でしか顔を合わせることのなかった乾と、ふたりきりで会うようになったのは、中学三年の夏が終わった頃だった。部活を引退し、お互いに時間ができたのが、きっかけだ。
ほかの誰かではなく、相手が乾だったのは、自覚はしていなくても既に惹かれていたからだったのだと思う。
あの頃、乾はなにを考えているか表に出ない奴だと思っていた。
理性的な性格で態度も落ちていたし、中学生にしては感情の起伏が少ないように見えていた。
それに関しては、乾からお互い様だと言われたこともあった気がする。
でも、手塚とふたりでいるときの乾は、意外なくらいよく笑う。
それにつられて、手塚も常になく笑ってしまったことを、まだ覚えている。
10年近く前の話だ。
やっぱり、今でも乾は表情の出にくい奴だけれど、なにを考えているかは大体わかる。
それくらい、長く近くにいたのだ。
でも、最近ふと気づいたことがある。
乾が本気で怒った顔を、ほとんど見た記憶がないのだ。
たとえば、テレビのニュース番組や新聞記事に対して、憤慨しているところは何度も見ている。
だが、怒りの感情をはっきりと表に出している姿は、まったく見覚えがない。
ものすごく心が広いのか、それとも手塚が見ていないだけか。
乾には悪いが、どうも後者のような気がする。
長いつきあいなのに、乾にはまだ手塚の知らない顔があるのか。
あの男なら、それも不思議ではない。
普段とまったく変わらない顔で平然と嘘をつき、本音を語るときのほうがよほど嘘くさい。
乾は、そんな奴だ。
だが、知らないままなのは、ちょっと癪に障る。
そんなことを、ここ数日の間、手塚は考えていたのだった。
「お前は、怒ることがないのか?」
手塚の唐突な質問に、乾は、きょとんとした顔を見せた。
手には、読みかけの本を持ったままだ。
身長が180センチを超えた男には、少々小さく思えるソファの上で、片膝を立てて座っている。
辛子色のふたりがけのソファは、乾が一人暮らしを始めたときに買ったものだ。
最初に住んだ学生向けのアパートから、今のマンションに引っ越してきたときも持ってきた、乾のお気に入りらしい。
ソファは乾の専用席みたいなもので、一応客という立場の手塚には座布団が用意してあった。
フローリングのマンションに、クッションではなく座布団を選んだのには、なにかしらの意図がありそうだが、まだ聞いたことはない。
「なんの話だ?」
「だから、誰かに怒ったり、腹を立てたりしないのかと聞いている」
「そんなことはない。怒るときは怒るよ」
「俺は、お前が怒ったところを見た覚えがないが」
乾は、ふうんとちいさく呟いて、こちらを見ている。
のん気な顔をしてはいるが、頭の中ではきっとまた面倒くさいことを考えているに違いない。
ここ数日、乾の怒った顔を見る方法を、手塚なりに色々と考えた。
あくまでも、手塚なりにだ。
すぐに思いついたのは、わざと怒らせることだった。
だが、それでは乾に失礼なので、すぐに却下した。
他に考え付いたことも、それに似たり寄ったりで、自分の方が不愉快になりそうだ。
なので、回りくどいことはやめて、乾に直接たずねて見ることにしたのだ。
お前は怒らない人間なのかと──。
「それは、あれだな」
乾は、読みかけの本を閉じて、立てていた片足をソファから下ろして座りなおした。
つられてなんとなく手塚も座布団の上で、足を組みなおす。
「手塚と一緒にいるときは常に幸せだから、怒ることがないんだよ」
何をもったいぶっているのかと思えば、こんな答えか。
「真面目に答えろ」
「いやいやいや、大真面目です」
わざとらしく真剣な顔を作る時点で、真面目なはずがない。
「いいから、ちゃんと答えろ」
「本当なんだけどなあ」
乾は少しの間ぶつぶつ言っていたが、一応は手塚の質問に答えるつもりになったようだ。
それなりに真面目な顔を作ってはいるが、眼鏡の奥の黒い目はなんとなく楽しそうだった。
「俺は特別心が広いわけじゃないから、人並みに怒りの感情が沸くことはある。でも、大抵の場合は怒るよりも先に、状況を分析したいと思うようだな」
「いきなりかっと頭に血が上ったりはしないってことか?」
「まあ、そんな感じ」
「自制心が強いんだな、お前は」
「それはどうだろう。単に好奇心が強いだけじゃないだろうか」
好奇心の強さが、怒りの感情を上回るというのは、いかにも乾らしい理由だ。
納得は行くが、共感はできそうにない。
「手塚も、そんなに怒りっぽいほうじゃないだろう」
「自分ではよくわからないが」
短気ではないかもしれないが、じゃあ気が長いかというと、そうではないと断言できる。
少なくとも、自分自身を心が広いと思ったことはない。
正直にそう口に出すと、乾は人より長めの首を右に傾けた。
「手塚は、自分にも他人にも厳しい人間だけど、短気じゃないよ」
どう答えていいのかわからず、黙っていると、乾は勝手に先を続けた。
「立場上、後輩を叱ったりはしても、手塚自身が怒っているわけじゃないよな?」
「そうかもしれないが、お前よりは怒る回数は多いと思う」
「そもそも、最初の質問の意図はなんだったんだ?」
こういう質問を、今頃するのが乾らしい。
「俺だったら怒るような状況でも、お前が平気にしていたから」
「ん?それはテニス部時代の話か?」
「そうだな」
「例えば?」
例えと言われて、手塚はそのまま黙り込んでしまった。
手塚には失礼だと感じられる事例を、当事者である乾の前で具体的に説明するのは抵抗があったからだ。
言い淀んだ手塚を見て、乾もそれに気づいたらしい。
「あ、ごめん。気を使わせちゃったかな。相手がいることなら、適当にぼかしてくれていいから」
ごめんと言いながらも、具体例を上げることは免除してくれないようだ。
本人がどうしても聞きたいなら、変に隠さず言ってしまった方がいいだろう。
「簡単に言うとだな。誰かに侮られたような態度をとられたり、後輩から馴れ馴れしすぎる口をきかれたりするようなことだ」
「ああ、そういうパターンか」
乾は何度か小さく頷いたあと、腕組をしてなにか考え始めたようだ。
当時を思い出しているのだろうか。
乾は、とっつきにくそうな外見からは想像しにくいが、実は結構面倒見がよく人付き合いもいい人間だ。
人にものを教えるのも上手だから、青学テニス部時代は、後輩の指導役に回ることが多かった。
そのせいか、後輩からも頼られていたし、手塚などよりもずっと親しい会話をしていたと思う。
だが、ときどき親しいという範疇を超えた態度を取るものもいて、はたで見ていると少々気になったのだった。
正直、注意しようかと思ったことも何度かあった。
だが、当の本人が許しているのに、手塚が口を出すのはためらわれた。
テニス部はそこまで上下関係に厳しかったわけでもなく、自分が堅苦しく考えすぎなのだろうと判断し、結局行動には移さなかった。
「手塚は真面目なんだな」
少しの間、考え込んでいた乾が、やっと口にしたのは意外な言葉だった。
「どうしてそうなる」
「俺の方が、ずっと人が悪いんだよ」
乾は、足を組みなおしてから、ふっと笑みを浮かべた。
優しげなのに、少しだけ意地が悪そうな、そんな笑い方だ。
「多分、誰にそう言われたかで反応は変わってたと思う。もし俺が特に反応しなかったんだとしたら、単純にどうでもいいと感じたんだろう。我慢強さとは関係ない」
「怒る価値もなかったってことか」
「そこまでは言わないけど、まあ遠くはないかな」
そう言ってから、乾はにやりと笑いなおした。
「ね?俺の方が人が悪いだろう?」
だから、手塚のことを真面目だと表現したのか。
説明されて、なるほどと思った。
だが、手塚の方も真面目と言えたのかどうか、あやしいものだ。
当時はわからなかったけど、今になって見えてきたものがいくつかある。
あの頃の手塚が苛々としたのは、単なる礼儀の問題じゃない。
手塚は、乾のテニスが好きだった。
詳細なデータの積み重ねから導き出された、緻密で無駄のない試合運び。
しなやかなフォームから繰り出される弾丸のようなサーブ。
乾らしい、とても綺麗でシャープなテニスだった。
理想のテニスのためには、どんな努力もおしまないところも尊敬していた。
そんな乾を、誰かが侮辱したり、敬意を払わないことが許せなかったのだ。
自分が大事に思っているものを、自分以外がぞんざいに扱ってほしくない。
それだけのことだったのだろう。
あれもひとつの独占欲だ。
乾と今のような関係になる前に、手塚にとって乾はすでに特別だった。
10年以上経った今、それがわかる。
「手塚が俺のことで、そんな風に思ってくれてたのは嬉しい。ありがとう」
「礼を言われるようなことじゃない」
乾は嬉しそうに言うけれど、もともとはただ乾の怒る顔が見たかっただけの話だ。
それを黙っているのはフェアじゃない気がする。
「俺は、一度くらいお前の怒る顔を見てみたかったんだ」
「面白くないぞ、多分」
「そういう話じゃない」
「うん。わかってるよ。ちょっとした照れ隠しです」
乾は、自分の眼鏡のブリッジを長い指で押し上げた。
これはきっと、猫が急に顔を洗ったりするのと同じような行動だ。
なんとなく二人で黙ってしまったあと、乾がいかにも何か思いついたという顔をした。
楽しいことを見つけた時の顔は、さほど変化がなくたって、手塚にはすぐにぴんと来る。
「俺は手塚の泣いた顔が見てみたいかも」
「諦めろ」
「……即答ですか」
「でもまあ、多分、世界中で見たのは俺だけって顔を沢山知っているからね。これ以上の贅沢は言わないことにするよ」
こういう科白を、平気な顔で言えるのは、間違いなく乾の才能だろう。
「……わかった」
「ん?なにが?」
「お前は、『怒らない奴』なんじゃなくて、『怒らせる奴』なんだってことが」
「ああ、なるほどね」
なるほどね、じゃない。
目の前で笑い転げている男に、そう怒鳴りつけたところで、きっと聞いてはいないだろう。
2012.08.25(2012.08.29加筆修正)
乾って、あまり怒らないよなーってところから始まった妄想。
でも、怒らせるのは上手そうです。