タイムスリップ
手塚の顔は、とても繊細なつくりをしている。そんなことに、唐突に気がついた。
出会ってから、二年と少し。
なぜ、今までなんとも思わなかったのか。
それが不思議で、仕方なかった。
真夏の部活は、ただテニスコートに立っているだけでも、結構辛い。
日を遮るものがなく、今日のように風が殆どなく蒸し暑い日は、地獄だと言ってもいい。
気をつけていないと、熱中症で倒れてしまいかねないので、交代で早め早めに休憩を取ることになっていた。
その日、二度目の休憩を取った俺は、自分用のドリンクボトルを持って日陰に移動した。
風はなくても、直射日光を避けられるだけでも、随分と違う。
水分と塩分を同時に補給できるよう、市販のスポーツドリンクを入れてきたが、それももう空になってしまった。
それでも喉の渇きがおさまらないので、グラウンド内にある外水道を使うことにした。
ついでに、汗まみれになった顔を洗ってこようと思ったのだった。
先客がいるのは、いくら目の悪い俺でも、最初からわかっていた。
だが、近づいて初めて、それが手塚だと気づいた。
身体を屈めていても、特徴的な背中でわかった。
手塚は俺に背を向け、顔を洗っている。
勢いよく水が流れる音がしていた。
邪魔をしないよう手塚から少し距離を置いて、蛇口を捻ろうとしたときだった。
急に水音が止まり、手塚が顔を上げる気配がした。
そっちをつい見てしまったのは、ただの好奇心で、深い意味はなかった。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
顔を上げた手塚は、当たり前だけれど、眼鏡をかけていなかった。
タオルを首にかけて、顎のあたりを押さえている。
何度も見たことのある仕草なのに、見た瞬間に心臓が鼓動を大きくした。
綺麗な顔立ちをしていることは、わかっていた。
それは一目見れば、誰だってそう思うはずだ。
でも、ただ顔の造作が整っているだけじゃないんだと、改めて気づいた。
肌のきめが細かくて、ものすごく滑らかだ。
顔や腕は、それなりに日焼けしているけれど、襟元から除く肌は白い。
睫はとても長く、色が薄い。
全体的に色素が薄いとは思っていたが、睫までそうだったのか。
なんだか、陽の光が透けてしまいそうだ。
ああ、本当に綺麗だ──。
声に出しそうになったのを、ぎりぎりで押しとどめる。
なぜ、今まで気づかなかったんだろう。
もっと近い距離で顔を見たことが、あったはずなのに。
いや、違う。
見ていなかったんだ。
傍にいて、必死にデータを集めても、手塚自身をきちんと見つめていなかったんだ。
時間にしたら、きっと一分かそこらだったんじゃいなかと思う。
おそらく、俺は呆けたように、手塚を見ていたのだろう。
気づいたら、すでに眼鏡をかけた手塚が、俺の方を向いていた。
「何か用か」
ガラス玉みたいな目が、俺を見ている。
長めの前髪が、少し濡れていた。
「いや、別に」
まさか本人に向かって、俺が何を考えていたかなんて、言えるはずはない。
間抜けな返事をしてしまったが、手塚は特に何も感じてはいないようだ。
少し眩しそうに空を見上げた後、俺に背を向けテニスコートに向かって歩き始めた。
手塚が濡れてしまった前髪を、拭いた様子はない。
「前髪、まだ濡れているみたいだけど」
「すぐに乾く」
歩きながらそう答え、数歩進んだところで足を止めた。
「お前も早く戻れ」
振り向いた顔は、いつもの手塚だった。
強くて怖い、部長の手塚だ。
でも、もう昨日までと同じようには見られない予感がした。
それが、恋の始まりだった。
あれから5年。
手塚に、そのときのことを話すと、まったく覚えていないと一蹴された。
でも、本当かどうかは、ちょっとあやしい。
冷たく澄ました顔をしているけれど、レンズ越しの目だけは、わずかに笑っている。
あの頃のような線の細さは、今の手塚からはもう消えている。
だけど、今でもあの頃の面影を感じられるときがある。
それは手塚の眠る顔だ。
眼鏡のない伏せた目や、前髪からのぞく白い額は、あの日のままだ。
だから、やっぱりそれを眺めている自分も、あの日のようにときめいてしまう。
暑い夏の午後。
眩い光の中にいる手塚は、本当に綺麗だった。
なんの不純物も混じっていない、無垢で純粋な生き物に思えた。
眠る手塚の顔は、大人になった今も、やっぱり無垢に見える。
その滑らかな頬に、そっと触れてみた。
あの頃は、手塚に触れるなんて、恐れ多くて絶対に出来なかった。
当時の自分を思い出すと、つい笑ってしまう。
今では、ちょっとした悪戯をする隙を与えてくれる手塚に感謝しつつ、もう少し欲を出してみる。
眠っている手塚を起こさないように気をつけながら、そっと唇を重ねてみた。
眠っていたはずの手塚が、するりと両腕を俺の首に回した。
大人になって良かったと思うのは、こんなときだ。
2010.12.03
途中まで書いて放置していた文。9月頃日記に「ある言葉が思い浮かばない」と書いていたやつです。
読み返してみたら、その部分をすっとばしても別にいいやーと開き直れました。まあ、そんなものです。
中学生企画用だったんですが、やっぱり普通にアップします。