新年早々
手塚から、今日そっちに行くという連絡があったのは、大晦日の朝だった。冗談だと思うには、口調が本気っぽかったので、気をつけてと返事をしておいた。
いくらなんでも突然すぎるが、過去の例を考えればありえなくはない。
大人しく家を空けずに待っていたら、本当にその日の午後には、顔を見せた。
よく手塚の話を聞けば、急な用事があって昨日のうちに日本に戻ってきていたのだそうだ。
用事を片付けたあとは、俺のところに直行してくれたらしい。
連絡がギリギリになったのは、予定がどうなるか直前までわからなかったからだと、手塚は言う。
びっくりはしたけれど、嬉しいことには間違いない。
俺の両親は今年の正月は海外で過ごすので、最初から帰省する予定もなかった。
期せずして、俺は新年を手塚とふたりで迎える事ができたわけだ。
誰にも邪魔されることなく、ゆっくりと過ごす時間は、これ以上ないほどの贅沢だ。
年越し蕎麦もお節料理もないけれど、手塚がいればそんなものは必要もない。
いつもとほとんど変わらない食事をして、普通に寝て普通に起きる。
それだけで十分楽しかった。
二日の夜も、特別なことはなにも起きず、平穏に過ごしていた。
風呂に入っていた手塚は、白いバスローブを着て寝室に戻ってきた。
俺は先に済ませていたので、既にベッドの上に寝そべり雑誌をめくっていたところだった。
真っ白なバスローブ姿の手塚は、迷わずに俺のいるベッドの端に腰を下ろした。
まったくの偶然だが、このオーガニックコットンのバスローブは、つい数日前に買ったばかり。
もちろん、最初から手塚のために選んだものだ。
ふわふわとした雪のような生地は、新年にふさわしいかもしれない。
柔らかい肌触りが気に入ったのか、初めて袖を通したとき、嬉しそうな顔をしていた。
「手塚って」
俺の言葉を聞いた手塚は、洗い立ての髪を拭きながら、何も言わずに首を捻る。
「脱ぐと、いい身体してるよな」
寝転がったまま見上げた手塚の顔は、ほんのりと赤みが差している。
「一応、これでもプロのテニスプレイヤーだからな」
つまらなそうに言うと、また俺に背中を向けてしまった。
テレビで手塚の試合を見ていると、外国人選手に比べて、ずっと華奢に見える。
だが、実際にその姿を近くで見てみれば、印象はかなり違う。
確かに骨格は細めだが、全身が無駄のない綺麗な筋肉で覆われていて、意外なほどがっしりしている。
日本人にしては肌は白く、どちらかといえば体毛も薄いので、その裸身は彫像のようにも見えた。
体脂肪率は常に一桁で、痩せやすい体質の手塚が、この体を維持するには、相当に気を使っているはずだ。
さっき手塚が口にしたプロという言葉は、実のところかなり重たい。
そこには手塚の誇りと並々ならない覚悟がこめられているのを、俺は知っている。
そして、この鍛え抜かれた身体の隅々までを、誰より知っていることは、人には言えない自慢でもあった。
「中学のときは、ものすごく細かったのにね」
「お前だって、あまり人のことは言えなかったぞ」
手塚は少し身体をこちらに向けて座り直す。
湿った髪の束が、ぱらりと揺れた。
「確かにそうだった」
中学時代の俺の体重は、今より10キロ以上軽かった。
手塚の方は、あの頃に比べれば、20キロ近く重くなっているだろう。
ベッドの上に置かれた手塚の左手に、そっと自分の手を置いてみる。
骨ばった感触は、昔と変わらない。
だけど軽く握った手首は、中学時代よりもずっとしっかりしていた。
「怖かったよ。あの頃は」
「なにがだ」
軽く捻られた手塚の首は、芸術的なまでに美しいバランスで止まる。
まだ手塚とそんな関係ではなかった頃でさえ、何度もその場所に唇を這わせてみたかったことを思い出した。
「抱くたびにさ。どこか折れるんじゃないかって」
「そこまで、ひ弱ではなかったと思うが」
「弱弱しさはなかったよ。でも、抱きしめると、やっぱり細いんだなって思う」
学生服に身を包み、全校生徒の前に堂々と立つ姿や、テニスボールを追いかけているときの精悍な顔。
それに比べて、初めて裸で抱き合った手塚の身体は、痛々しいくらいに華奢に見えた。
掌に収まりそうな細い肩や、薄い皮膚のすぐ下にある尖った肩甲骨に触れたとき、どうしようもなく切なくなった。
今思えば、あれは、ただ恋焦がれていた相手を、最初に愛しいと思った瞬間だった。
「今は多少の無茶をしても大丈夫そうだからね。安心して抱ける」
手首を握る手に力を入れてみたら、手塚は小さく笑った。
「お前も、そこそこ鍛えてはいるようだな」
身体を動かすのは好きだし、テニスを完全にやめるつもりはない。
今のところは、一応腹筋は割れている。
「まあ、それなりには。でも、所詮は趣味程度に身体を動かしているだけの一般人ですから」
「わかっている」
手塚は何の前触れもなく、瞬きをするくらいの速さで、俺の手の中から自分の手首を引き抜いた。
そして、自由になった手で俺の身体を仰向けにひっくり返してしまった。
「一応、手加減はしているつもりだ」
その気になれば、俺くらいは片手で転がせることを、簡単に証明したわけだ。
「そうしていただければ、ありがたい」
手塚は少しの間、くすくす笑っていたが、何かを思い出したのか、急に表情を変えた。
「言うのを忘れていた」
「何?」
「今年から、年間を通してツアーの日程が大幅に変更になる。僅かだが、オフの時間が増えるだろう」
「そうか。よかったと言ってもいいのかな」
プロのツアーはスケジュールが厳しく、故障を抱えたまま試合をこなす選手も少なくない。
手塚も例外ではなく、学生時代から抱えていた利き腕の故障を、なんとかなだめながら戦っているようなものだ。
スケジュールの改変で、少しでも負担が減るのなら、喜ばしい。
「実際どうなるかはスタートしてみないとわからないが、多少はお前の顔を見る機会が増えるかもしれないな」
「それは嬉しいけど、無理はしないでくれよ」
「ああ。大丈夫だ」
手塚が何よりも大切なテニスを疎かにするわけはないと信じているが、物理的に可能だと判断すると多少の無理を通してしまうところがあるから、油断はできないのだ。
「お前の方こそ、あまり無理はするなよ」
「俺?俺は無理なんかしたことはないよ」
「本気で言っているのか」
「そうだけど」
手塚は俺を覗き込むような姿勢で、しばらくじっとしていた。
呆れたような顔が、やがて笑顔へと変化していく。
「変わらないな、お前は」
するりと俺の胸の上に手を置き、静かに顔を近づけてきた。
洗ったばかりの茶色い髪の毛が、さらさらと落ちてくる。
「昔から、俺に甘い」
密やかな声でそういうと、俺の身体に自分の体重を預けてきた。
手塚に甘いという自覚はあるが、昔からだったろうか。
過去を遡ろうとしたけれど、途中からそれも難しくなった。
俺の上に乗っかった手塚が、やたらと情熱的なキスをするからだ。
31日に手塚がここに着いてから、こんなキスは初めてだ。
穏やかで静かな夜は、手塚の中では、すでに終わったらしい。
それもいいなと思ってしまった俺は、やっぱり手塚に甘いのかもしれない。
2009.01.11
「PERSPECTIVE」「Lagrange Point」のふたり。
「いい身体してるよな」って言わせたかっただけ。