新年早々 オマケ

「手塚の今の体重って、何キロなんだ?
雑誌をめくる手が、ぴたりと止まる。
でも、視線は動かない。
ソファの上で、ゆったりと長い足を伸ばしたまま、手塚は少しだけ首を傾げた。
とりあえず、俺の声は聞こえているようだ。
白に近い明るいグレーのソファは、この部屋に引っ越したときに新調したものだ。
今では、すっかり手塚のお気に入りで、ほぼ指定席となっている。

特にこれといって予定のない休日だ。
昼食を終えた後、手塚はずっとソファを陣取り、手当たり次第にそこらにある雑誌をめくっていた。
これがちゃんとした読書なら、こんな姿勢は取らない。
多分、本当にただ眺めているだけで、真剣に文字を追っているわけじゃない。
だから、俺の唐突な質問に、読書を邪魔されたと怒ることもなく、返事をする気になったのだろう。

「78キロくらいだと思う」
手塚は雑誌から目を離さずに答えた。
「そうか」
現在の手塚は、俺よりも、10キロ近く重いことになる。
実際に、手塚の身体を見れば、納得はいく。
中学のころはとにかく華奢で、背の高さばかりが目立っていた。

テレビを通してしか手塚を知らなければ、きっと今でも、手塚はテニス選手としては小柄で華奢に映るだろう。
だが、それは手塚が戦う相手が、身体の大きい外国人選手ばかりだからだ。
もし、間近で手塚国光を見たら、多分、印象は全然違ったものになるはずだ。
確かに細いけれど、無駄のない筋肉に覆われた身体は、決して華奢ではない。
敵を撃つためだけの機能を残し、余計な装飾をを一切そぎ落とした戦闘機みたいなものだ。

それにしても、だ。
「俺が手塚に勝てるのは、身長だけか」
ため息交じりのつぶやきを聞きつけたのか、手塚はようやく雑誌から目を離し、俺の方を向いた。
「なんの話だ」
一応、反応はしているが、さほど興味はないといった表情だ。
そういう扱いには慣れているので、俺の方も勝手に会話を進める。

「体重の差は、ほぼ筋肉量の差だろう?」
「そうかもしれないな」
多少は積極的に参加してもいい話題だと思ったのだろうか。
手塚は読みかけの雑誌を閉じて、身体を起こした。
「中学の頃は、利き手の握力なら、手塚といい勝負だったんだけどな。今じゃ勝負をするだけ無駄だ」
綺麗なカーブを描いている手塚の眉が、ぴくりと動く。

「まあ、身長にしても、高けりゃ勝ちってわけじゃないけどね。でも、数値として手塚より上なのが、身長だけってのは、少し寂しいな」
これでも、かつては手塚をライバルだと思っていた時期があったのだ。
「テニスでは負けっぱなしだったからな。腕力とか、体格くらいは勝っていたかったよ」
半分以上は冗談のつもりで口にしたのだが、手塚はまったく笑っていない。
つまらないことを言ってしまったかなと思ったとき、急に手塚が立ち上がった。

「……どうした?」
無言で近寄ってくる手塚に、そう聞いてみたのだが、返事はない。
そう広い部屋でもないので、瞬きしている間に、俺の目の前にいた。
もう一度、どうしたと聞こうとしたが、その前に手塚が動いた。
がしっと腕を掴んだかと思うと、いきなり俺の身体を荷物のように、肩に担ぎ上げた。
ぐるんと視界が回る。

「え?ちょっ、と、なに」
なぜ自分がこんな状態になっているのか、理解できない。
お構いなしに、手塚は俺を担いだままの状態で歩いていく。
ずり落ちそうな眼鏡を押さえながら、なんとか降りられないかともがくと、冷静な声が聞こえてきた。
「大人しくしていないと落ちるぞ」
長身の手塚の肩の位置から、硬いフローリングの上に、落とされるのはちょっと困る。
とりあえず抵抗はやめて置いた方が無難そうだ。

おとなしくなった俺を担ぎ、手塚は悠々とベッドルームのドアを開け、中へと進む。
そして、ベッドの上に、どさっと俺を投げ下ろした。
それなりの高さから落とされたから、反動でベッドが揺れた。
どこも痛くはないが、それなりの衝撃があった。
反射的に身体を起こそうとしたが、素早く手塚が俺の肩口を左手で抑える。
そのまま、ぐいっと身体をベッドに押しつられた。
それだけで、俺は動けなくなってしまった。

たった片腕一本。
しかも、全体重をかけているわけでもない。
だけど、押さえつける場所がいいのか、面白いように動けない。
あがくだけ無駄だと悟った俺は、だまって手塚を見上げていた。

「言っておくが」
俺を見下ろす手塚は、いつもと変わらぬ冷静な声と顔をしていた。
だが、それは意識してそうしようとしているのだと、俺にはわかる。
「中学時代は、確かに身長と体重はお前に負けていた。だが、筋力は俺が勝っていたはずだが」
「柔軟度は俺の方が上だったと思うけど」
こういうとき、つい言わなくてもいいひとことを口にしてしまうのは俺の悪い癖だ。
手塚はぴくりと眉を動かし、俺を押さえつける手に更に力を込めた。

「面白いことを言うな、お前は」
抵抗できるものならしてみろと、手塚は言いたいらしい。
スプリングは硬めなのに、ぐんと身体がベッドに沈み込む。
俺の肩がみしりと鳴ったような気がした。

「あー、ごめんなさい。全面的に俺の負けです」
「わかればいい」
手塚は、すっと力を抜いて、俺の隣に膝を立てて座り直した。
ようやく自由になった身体を起こすと、手塚がふんと鼻で笑った。

「手塚」
「なんだ?」
「これってさ俺よりも、こんなに力があるんだって見せ付けるためだったりするのか」
「そうだ」
「荷物扱いはひどいんじゃないか」
「一応、気は使ったつもりだが。お姫様だっこの方が良かったのか」
「手塚の口から、お姫様って言葉が出るとは思わなかった」
「そういう扱いをして欲しいか?」
「いや、結構です」
さすがにそれは、いろんな意味で痛い。

俺が眼鏡をかけ直すのを、手塚は隣で笑いながら見ていた。
「テニスに関することは別だが」
焦点が合った手塚の顔は、とても楽しそうだ。

「昔から、お前には、なにをやっても勝てる気がしなかった」
「冗談」
「いや、本気だ。今もそう思っている」
手塚の利き手が伸びてきて、俺の髪に触れる。
きっと、ベッドに落とされたとき、ぐしゃぐしゃになってしまったんだろう。
髪を梳くようにしながら、手塚は囁くように言った。
「お前には勝てない。でも、それがいいんだ」

どんな意味で手塚がそう言ったのか、俺にはわからない。
でも、この言葉は、俺への慰めとか気休めではないことは伝わってくる。
身に覚えはないけれど、手塚がそういうのなら、それでいいんだろう。

「たまには、こういうのもいいだろう?」
俺の返事をまたずに、手塚が咲きに答えを出す。
今日の手塚は、とことんマイペースだ。

「どうせすぐに、お前に任せることになる」
手塚は広角を上げると、自分のシャツのボタンをひとつずつ外し始める。
「まだ、日も高いけど」
「気になるのか?」
「いや。全然」

今度は俺が手を伸ばして、手塚の眼鏡を外してやる。
「喜んで引き受けるよ」
手塚は満足げに微笑んで、俺の腕の中に身体を預けた。
その重みは少しも苦にならず、むしろ確かな存在感を俺に伝えてくれた。

壊れそうな身体の手塚は、もうここにはいない。
俺よりも10キロ近く重い、大人になった手塚が、今腕の中にいる。
同じように、俺になにもかも預けてくれることが、とても嬉しかった。

でも、片手一本で押さえつけられるのは癪なので、、手塚が帰ったら、本格的に身体を鍛えなおそうと思う。


2009.04.26

手塚に担がれる乾を書きたかったのでした。