レトロウイルス:0401
慣れないことは、するものじゃない。その言葉を、これほど痛切に感じたのは、初めてだったかもしれない。
巧くもない嘘など、最初からつくべきではなかったのだ。
仕事場の壁にかかった時計の針は、確実に進んでいる。
もうすぐここにやってくる乾のことを思い、手塚は無意識に大きく息を吐いていた。
ほんの出来心だった。
たまたまエイプリルフールが締め切りの前日だったから思いついただけで、前後に一日でもずれていれば、きっと考えもしなかった。
それに、あのいつも冷静な男を、不器用な自分が騙せるはずもない。
きっとすぐに嘘だと見破り、笑い飛ばしてくれるだろう。
乾が電話に出た瞬間まで、手塚はそう考えていた。
「明日の締め切りに、間に合わないかもしれない」
手塚がそう言った途端、乾は「え……」と短い声を上げたあと、電話の向こうで黙り込んでしまった。
きっと、カレンダーでも見て、今日が何の日か確認しているのだろう。
そんなことを想像しながら、手塚はソファの背に持たれて笑っていた。
電話は乾以外の声も拾っている。
さすがに出版社だけあって、もうすぐ夜の9時になろうとしているのに、沢山の人間がいるようだ。
「あの、正直に仰ってくださいね」
しばらく黙り込んでいた乾が、ようやく言葉を発した。
ああ、やっぱり一瞬でバレたか。
そうなんだ、エイプリルフールの嘘なんだ――。
笑って言おうと思ったのに、予想していなかった真剣な声がそれを遮った。
「もしかして、先生、お身体の具合が良くないんじゃありませんか」
「えっ?」
今度は手塚の方が黙り込む番だ。
こんな答えは想定していなかった。
まさか、嘘だと気づきながら、わざと惚けているのだろうか。
「先生が、締め切りに間に合わないなんて、余程のことでしょう。ご不調なら、正直に仰ってください。締め切りの方はどうにでもなりますから」
「いや、そういうことでは……ないんだ」
乾の声は酷く深刻だった。
嘘に嘘を返されたのかもという疑いを、打ち消すような響きだ。
これは、ちょっとまずいことになったかもしれない。
手塚は、身体を起こし、思わず携帯電話を持ち直した。
「では、何か別の問題が、ということですか」
真剣な声には、嘘や冗談の気配はない。
まさかあの乾が、自分の他愛もない嘘に、簡単に引っ掛かるなんて思ってもみなかった。
咄嗟に言葉が出て来なくて、ただ黙り込んでしまう。
本当なら、このときに嘘であることを伝えるべきだったのに。
「電話では仰りにくいことなんでしょうか」
乾は声を一層低くしたが、すぐにきっぱりした口調で先を続けた。
「わかりました。これからすぐに伺います。あ、駄目か。すぐは無理だな」
後半は、手塚にではなく自分に言い聞かせていたようだ。
「一時間待ってください。一時間後に伺います。マンションのほうでよろしいですね?」
「待ってくれ。いいんだ。そんな気遣いは」
慌てて断ったときには、もう遅かった。
乾は手塚の言葉は耳に入っていなかったらしい。
「では後ほど」とだけ言って、一方的に電話を切ってしまった。
手塚は、いつのまにか自分が立ち上がっていることに気がついた。
左手には、もう繋がっていない携帯電話を握り締めたままだ。
鏡を見なくても、自分が今どんな顔色をしているか想像がつく。
あの乾が、自分の嘘を見破れないなんて、予想もしていなかった。
普段の手塚が冗談を口にするようなタイプだったら、乾もそれなりに覚悟していたのかもしれない。
どちらかといえば、頭の固い手塚だから、油断したのだろうか。
いずれにしろ、今は、そんな分析をしている場合ではない。
急いで乾に連絡して、来なくていいと告げなくては。
慌てながら、再度、乾の携帯に電話をかけた。
だが、電話は通じなかった。
すでに、電車にでも乗ってしまったのかもしれない。
仕方ない。
腹を括ろう。
子どもじみた嘘で、忙しい乾を振り回してしまったのだ。
電話で謝るだけでは、あまりに申し訳ない。
いくら嘘をついてもいい日だといっても、真剣に仕事をしている人間に対して、あまりに無神経だった。
今頃になってそんなことに気づいた自分が情けなかった。
「遅くなりました」
こんなときでも、乾は時間に正確だった。
10時まで、あと5分というタイミングで手塚の仕事場についた。
「お疲れ様です」
ドアを開けた瞬間、出迎えた手塚を見て、乾は少しほっとしたような顔をした。
どれほど心配させたのと思うと、胸が痛んだ。
屈んで靴を脱ぐ乾の肩が、少し上下している。
駅からここまで、走ってきたのかもしれない。
中々手の内を見せない厄介な男だが、仕事に対しては常に熱心で誠実だ。
そんな乾に対し、信頼を裏切るような真似をしてしまったことが、恥ずかしかった。
「わざわざ足を運ばせて申し訳ない」
部屋に入るのを待ちきれず玄関先で頭を下げると、慌てた声が返ってくる。
「とんでもない。顔を上げてください」
「いや、謝らせてくれ」
乾は、戸惑った表情で手塚を見ていた。
いつものようにきちんとした濃い色のスーツを着込んでいるが、ジャケットのボタンは外れ、ネクタイが僅かに緩んでいる。
仕事中の乾が、そんな状態で手塚の前に立ったことなど、今まで一度もない。
自分がそうさせたのだ。
手塚は一度息を吸ってから、覚悟を決めて口を開いた。
「実は、締め切りに間に合わないかもしれないと言ったのはのは、嘘なんだ」
「それは、どういう……」
意味がわからないというように、乾は軽く首を傾げる。
知的な黒い瞳が、不安げに曇る。
「今日は4月1日だから」
乾は、手塚が全部を言わないうちに、その意味に気づいたらしい。
「あ!そうか。エイプリルフールだ」
思い切り驚いた顔をしたのは一瞬で、すぐに真顔に戻ってしまう。
「では、急な体調不良というわけではないんですね?」
口調は丁寧だが、問いかける声は真剣だ。
「ああ。この通り、ぴんぴんしている」
「何か、問題がトラブルが起きているわけでもなく?」
「それもない」
乾は、きっと怒るだろう。
それが当然だろうし、また、そうして欲しいとも思った。
だが、手塚の言葉を聞いた乾は、その場に黙って立ったままだ。
乾、と声をかけようとしたとき、突然身体を抱きしめられた。
「良かった」
小さな声だが、手塚に耳には、はっきりと聞こえた。
両の腕には、苦しいくらいに、力がこもっている。
「病気じゃなくて……本当に良かった」
もう、乾には許してもらえないかもしれない。
謝るよりも先に、無事で良かったと繰り返す声を、可愛いと思ったこと。
抱きしめる力と、自分を抱きしめる大きな背中をが、愛しくてたまらないこと。
そんなことが乾に知られたら。
しばらく乾の好きにさせていたが、なんとか自由になる肘から先を動かし、そっと乾の背中に回した。
そして、一度息を吸ってから、ゆっくりと名前を呼んでみた。
「乾」
ぴくんと乾の、肩が揺れる。
「部屋に入らないか」
「あ、すみません」
慌てて身体を離した乾は、少し照れたように微笑んだ。
「ついほっとしちゃって」
何か暖かいもので淹れようと声をかけ、一緒にリビングへと向かった。
湯気の立つティーカップを前に、乾は軽く頭を下げた。
「さっきは、すみませんでした。先生が締め切りに間に合わないなって余程のことなんだろうと思い込んでしまって」
乾は、照れくさそうに笑って、紅茶を啜る。
「無粋でしたね。せっかく楽しませようとしてくださったのに」
「謝らないでくれ。悪いのは、俺の方だ。本当にすまなかった」
深く頭を下げると、やめくてくださいという慌てた声が返ってくる。
申し訳なさで一杯なのに、そんな乾が可愛く見えてしまって困る。
だが、乾の優しさに甘えてばかりもいられない。
言うべきことは、まだあるのだ。
「言いにくいんだが……俺は、もうひとつ嘘をついていた」
「嘘、ですか?」
「ああ。実は、原稿はもう出来ているんだ」
「え?本当ですか」
「本当だ」
「そういう嘘なら大歓迎ですよ」
乾は、声を上げて笑った。
釣られて、つい手塚も微笑んでしまう。
「でも、聞かなかったことにしておきます。だから、明日また改めて伺わせてください」
「わかった」
「じゃあ、今日はもう仕事の話は終わりにして、少しお時間をいただいてもかまいませんか?」
「ああ。勿論だ」
「では、ここからは、プライベートタイムってことで」
乾は、にっこりと笑うと、カップとソーサーを持って、手塚の隣に座り直した。
そして、それをもう一度テーブルに置くと、空いた両の腕で、手塚を静かに抱き寄せた。
さっきとは違って、ごく弱い力だった。
そのかわり、今度は、乾の利き手が手塚の薄いセーターの中に潜り込んでくる。
掌が手塚の素肌をゆっくりと撫で回し始めたが、今日だけは、何をされても多めに見るしかない。
手塚の覚悟を知ってか知らずか、乾の右手はとても大胆だった。
多分、怒られないことを、もう気づいているのだろう。
2008.04.08
時期はずれのエイプリルフール話。バカップルです。
乾は、お泊りするんじゃないのか。で、また翌日のこのこやってくるんだ。
前後に分けるほどの話じゃないので、一本にまとめ直しました。