CALLING YOU
「国光さん」名前を呼ばれて顔を上げる。
キッチンからひょいと顔をのぞかせる男と目が合った。
黒縁の眼鏡の向こうにある瞳は、人懐こい犬を思わせた。
ただし、この犬はかなりの大型だ。
つきあうには、それなりの覚悟がいる。
「今、ちょっといいですか?」
「なんだ?」
「味見していただきたいんですが」」
「ああ、わかった」
手にしていた本を閉じ、ソファから立ち上がろうとすると、乾の方が先にこちらに向かって歩いてきた。
急いでテーブルの上に広げていた資料を片付ける。
「熱いから気をつけてくださいね」
差し出された深めの小皿には、にんじんとじゃがいもと角切りのベーコンが、ひとかけずつ。
赤いスープからは、ふわっとトマトの香りが漂ってきた。
このミネストローネが、今夜のメインだと事前に聞かされている。
目の前にいる大型犬は、なかなかの料理上手なのだ。
箸を受け取り、湯気を立てるじゃがいもを慎重に口に運ぶ。
口の中でほろほろと崩れるじゃがいもには、しっかりとトマトとベーコンの風味が染み込んでいた。
確かに火傷しそうに熱いけれど、とても美味しい。
やっと飲み込んでから、旨いと言うと、乾はほっとしたように目を細めた。
「味、薄くないですか?」
「いや、ちょうどいい」
「じゃあ、そろそろ仕上げますね」
空になった皿と箸を手に、乾はキッチンへと戻っていく。
今夜の乾は、薄手のモスグリーンのセーターに、持参した黒のタブリエを身に着けていた。
どうということのない組み合わせだが、長身の乾が身に着けると、格好良く見える。
乾は時間があるとき、手塚の仕事場に食事を作りに来てくれる。
今夜のように、土日を利用して泊りがけで来ることが多いが、平日でも都合がつけば気楽に立ち寄っていく。
最初のうちは、材料まで持ち込んでくれたが、この頃では事前に冷蔵庫の中身を聞いてくる。
何が残っているかを伝えると、それで作れる料理を考え、足りないものだけ用意するという具合だ。
これは、手塚が遠慮しないように気を使ってくれているのだと思う。
手塚は、今月の頭に一年続いた連載を終えたところで、スケジュールには少し余裕ができた。
担当は乾だったので、彼にとっても一段落というところだろう。
といっても担当している作家は手塚一人ではないので、そうそう暇があるわけでもない。
それでも、仕事を離れて会える時間が、僅かばかりでも増えたのは確かだ。
今日も明るいうちから、手塚の仕事場に顔を出して、何かと世話を焼いてくれていた。
乾だって、たまの休みにはゆっくりしたいだろうに。
気を使うなと言っても、好きでやっていることだからと乾は笑顔を返してくる。
今日のメニューは、乾いわく「冷蔵庫一掃メニュー」だそうだ。
メインのミネストローネには、人参、玉ねぎ、キャベツにきのこが数種類。
それに角切りのベーコンと、ホールトマトの缶詰が入る。
サイドメニューは、海老とエリンギのガーリック焼き。
サラダは水菜の上に千六本の大根を盛り、天辺には缶詰のツナを載せてある。
このツナ缶も、まとめ買いしたのはいいが、使いきれずにいつのまにか忘れて切っていた物だ。
いつ見つけたのか知らないが、ちゃんと賞味期限内に使ってくれたようだ。
それに雑穀入りのご飯と、今夜は栄養満点だ。
「残り物のの集大成ですね」
並べたメニューを見て、作った当人が笑う。
「でもどれも旨い」
お世辞ではなく、本当にどれもこれも美味しい。
塩分は控えめにすることで、素材の持ち味がかえって引き立っている感じだ。
「ありがとうございます。国光さんは好き嫌いがないから、献立を考えるのが楽しいですよ」
国光さん、か。
心の中で、自分の名を繰り返してみる。
以前は、そう口にするとき、乾は少し照れくさそうだった。
仕事以外では、国光と呼んでくれと言ったのは手塚自身だ。
初めてそう告げたときの困った顔が忘れられなかったので、もう少し苛めてみたくなったのだ。
だが、言いにくそうにしていたのは、最初のうちだけで、すぐに慣れてしまったようだ。
最近の乾は、ごく自然に名前を口にする。
逆に、今は手塚の方が少し落ち着かなくなってきていた。
初めて会ったときから、低くて穏やかな、いい声だと思った。
その声で、「先生」と呼ばれる度、胸の中に小さな波が立つような感じがしていた。
だが、国光と名前を呼ばれるのは、それとは全然違う。
最初にそう呼ばれたのが、ベッドの上だったからだろうか。
先生という響きより、僅かに甘く艶めいて聞こえてしまうのだ。
その結果、乾以上に手塚の方が、名前を呼ばれる度に照れているのだからどうしようもない。
乾に関しては、こんなはずじゃなかったと思うことばかり起きる。
アドバンテージを取ったつもりになっても、すぐに取り返され、あっさり逆転されてしまう。
こんな相手は初めてだ。
初めてだから、余計に困る。
でも、それを楽しんでいる自分もいる。
「国光さん?」
また名前を呼ばれて、はっと顔を上げた。
しばらくぼうっとしていたようだ。
「どうかしました?」
「いや、どうもしない。じっくり味わっていただけだ」
止まっていた箸を動かすと、乾はにっこりと笑った。
「そうですか。たっぷり作りましたからね。どんどん食べてください」
「もちろん、そのつもりだ」
「食後の運動も、僕がちゃんとつきあいますからね」
再び箸を止めて、正面からじっと顔を見つめる。
「ね、国光さん」
今度は、にっこりではなく、にやりと笑った男は、やや声を落として手塚の名前を口にした。
その声が、今日一番艶めいていたのは、言うまでもない。
2009.02.04
タイトルは、映画「バグダッド・カフェ」テーマソングから。
食べ物の描写にばかり時間を費やした気がするけど、まあいいや。