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はる
ここ数年、特に大きな変化のない生活を送っているはずの手塚でも、やっぱり春は少し慌しい。ゆっくり花見をする時間もなく、近所の公園の桜を散歩のついでに眺めただけで、終わってしまった。
時間にして、精々30分くらいの花見ではあったが、男二人で、ぼんやり満開の桜を見上げるのも、そう悪いものではなかった。
忙しさを忘れて、ほっと一息つける時間は、やはり必要なのだ。
4月には乾の職場でも異動があったようだが、ありがたいことに手塚の担当を外れることはなかった。
ここまで深くつきあうなら、仕事とプライベートは、きっちり分けたほうが、お互いのためになるのではと何度も考えた。
しかし、編集者として優秀な乾がいなくなるのは、手塚には大きな痛手となる。
今まで仕事をしてきた編集者と比べても、乾が一番相性がいい。
恋愛の対象としての乾も、仕事上のパートナーとしても、自分にとってはかけがえのない大切な存在なのだ。
正直なところ、もう乾のいない生活を、想像できなくなってしまっている。
ここまで依存するのは、自分でもどうかと思うは、今は一緒に仕事を続けられることを喜ぶだけだ。
そうこうしているうちに、極端に暑い日や寒い日を挟みながら、春は駆け足で過ぎていった。
そろそろ夏の気配がし始めてきて、自然と気持ちが晴々してくる。
作家になってからは、似合わないと言われてしまうが、実は昔から夏は嫌いじゃない。
テニスをしていた学生時代は、夏が一番好きな季節だった。
「じゃあ、今年は、少しは日焼けしてくださいね」
夏が好きだという手塚の発言に、乾は笑って答えた。
汗が引いたばかりの裸の胸の上を、手塚よりも少し大きな手が滑る。
「人のことを言えるか?」
手塚の目には、どう見ても乾の方が色が白い。
お返しに、乾の頬に手を伸ばしたが、触れる前に捕まってしまった。
「あなたは、どこも真っ白ですよ」
目を細めた乾は、手塚の掌にキスを落とした。
そんな仕草が様になる男を、他に知らない。
ベッドに入る前に、冷やしておいた寝室は、今はちょうどいい温度になっている。
肌と肌が触れ合っても、あまり暑苦しくない。
後から汗を流してくるつもりだが、今はもう少し余韻を味わっていたかった。
おそらく乾も同じことを考えているらしく、乾の手は、ずっと手塚のどこかしらに触れている。
程よい疲れと、乾の掌の感触が心地よい。
シャワーは諦めて、このまま眠ってしまおうか。
目を閉じたら、囁くような声が耳をくすぐった。
「眠い?国光さん」
「ん。少し、な」
自分の名前を口にするときの、乾の声が好きだ。
ベッドの上で聞くと、余計に甘く聞こえてしまう。
プライベートは、先生をつけずに名前で呼ぶように頼んでから、ずいぶん経つ。
最初のうちは、言いにくそうにしていたが、今ではごく自然に使い分けている。
たまに間違えてくれれば、可愛げもあるのだが。
この男に限っては、絶対そんなミスはおかさないだろう。
むしろそう言い出した自分の方が、落ち着かない気分になったりしている。
乾の口から聞く、自分の名前は、特別な意味を持っているとわかっているからだ。
少しだけ乾を困られせたくて言っただけなのに、まさか、こんな気持ちになるなんて予想してなかった。
物書きのくせに、どうも想像力が足りなくていけない。
予想していなかったことは、実はもうひとつある。
それは乾の呼び方だ。
自分は名前で呼ばせているのに、こっちはずっと姓を呼び続けていていいのだろうか。
出会ったばかりの頃は、乾さんと呼んでいた。
しかし、今さら『さん付け』では、少しよそよそしい。
なので、仕事の話をしているときは、『乾君』になった。
だが、プライベートな時間もそれでは、あまりに年上ぶっているような気がする。
乾自身は、呼び捨てで構わないと言う。
なので、ためらいながらもそうしていたのだが、本当に今のままでいいのだろうか。
乾が名前を呼ぶのに慣れてくるようになってから、それがだんだん気になり始めた。
いい機会だから、今聞いてみようか──。
「乾。ちょっと聞いていいか」
「なんでしょう」
乾も少し眠くなってきたのか、手塚を見る目が細くなっている。
「君は俺を名前で呼んでくれるが、俺は今のままの呼び方でいいのか?」
「ええ。別に構いません。いぬい、って呼ばれるのが気に入っているんですよ」
「それなら、いいんだが」
そうあっさり言われては、返す言葉はない。
だが、納得しきれていないのが顔に出てしまったらしい。
乾は、ふっと柔らかい笑顔を浮かべた。
「気になりますか?」
「少し、な」
今の呼び方が、嫌なわけではない。
だが、作家と編集者と言う立場や、手塚の方が年上であることを、強調しているように感じてしまうのだ。
プライベートな時間に、そんなものは必要ないと思うのに。
「じゃあ、名前で呼んでみます?」
確かに、苗字を呼び捨てにしたり、君付けで呼ぶことに抵抗があるなら、それしかない。
「ちょっと、試してみてください」
「わかった」
一度、軽く息を吸ってから、初めて面と向かって、名前を口にしてみた。
「貞治」
「はい」
そう言ったきり、変な間が空いた。
何も言えなくなってしまったのだ。
「……ちょっと……これ、きますね」
同じように黙り込んでいた乾が、低い声で呟いた。
「見えないでしょうけど、俺は今、顔が赤くなってると思います」
「俺もだ」
耳が、ものすごく熱くなっているのが、自分でもはっきりとわかる。
部屋の中が薄暗くて良かった。
もし明るければ、耳が真っ赤になっているのを見られていただろう。
「慣れれば、平気になると思うんですけどね」
乾は、困り果てたように、眉尻を下げて笑った。
おそらくその通りなのだろうと、手塚も思う。
しかし、とてもじゃないが、そう簡単に慣れるとは思えない。
とにかく、まだ耳が熱いのだ。
心なしか、手塚に触れている乾の掌も、少し熱い気がする。
「あ、そうだ。ハルってのはどうでしょうか」
「はる?」
「ええ。小さなころ、そうやって呼ばれていた時期があるんです。貞治よりは、まだいいかなと」
「そうだろうか」
「きっと」
乾は、手塚の目を見て、こくんと頷いた。
きっと今すぐ試せと言っているのだろうと、理解した。
もう一度息を吸いなおし、また名前を呼んでみた。
「ハル」
「はい」
今度は、あまり間を空けずに、乾が口を開く。
「ちょっと、くすぐったいけど、さっきよりはずっといい。国光さんは、どうです?」
「そう…だな。俺もこれなら大丈夫だと思う」
真剣に返事をしている自分がおかしくなって、つい笑ってしまった。
乾も同じように、くすくすと笑う。
いい年をした男が、たかだか名前をどう呼ぶかで、うろたえたり困ったりしているのだ。
笑ってもしかたない。
でも、恋をしている真っ最中なんて、そんなことの繰り返しばかりだ。
それは悪い気分じゃない。
「徐々に慣れていきますよ、貴方も俺も」
さっきまで眠そうだった黒い目が、少し艶めいて見えた。
「でも当分は、ここ限定にしてくださいね」
「ここ?」
「ベッドの上、限定ってことでよろしく」
手塚が返事をする前に、素早く唇を塞がれてしまった。
「最中は、短いほうが呼びやすくていいでしょ?」
乾は、すぐに唇を離し、これ見よがしににっこりと笑った。
腰の上にあった手が、腰骨を掠めて、さらに前の方へと移動する。
人の良さそうな笑顔を浮かべながら、平気でそういう真似もできる奴なのだ。
「ちょっと、待て」
「いやです」
もう、今夜はこのまま眠るつもりだったので、準備が出来ていない。
だが、乾はお構いなしだ。
手塚がどんな状態であれ、この男がその気になれば、どうにでもなってしまう。
乾のやることは、乱暴でも、強引でもない。
ただ、嫌になるほど、上手なのだ。
手塚にはもう、抵抗する手段がない。
こうなってしまったら、大人しく降参するしかなかった。
結局、乾の言う通り、ベッドの上でしか呼べなかった。
確かに、そこでなら短い名前は呼びやすい。
季節が巡り、次の春が来る頃には、普通にハルと呼べるようになっているだろうか。
2010.07.10
誕生日祭の直前に書いていたもの。
書き終わる前に、誕生日が来たので、今頃になりました。