SMOKY

手塚はどちらかといえば、あまり口数の多い方ではない。
良く人からそう言われるし、自覚もしている。
それでも、やっぱり口を滑らせてしまうことは、あるもので、痛い失敗も経験している。
特に、この相手にだけはと思っていると、余計に言わなくてもいいことを言ってしまう。
多分気のせいではない。
そう手塚は思っていた。

「君は、煙草を吸うんだな」
軽い雑談の中で、何の気なしに言った言葉だった。
テーブルを挟んで向かい合わせに座っていた乾は、コーヒーカップを手にしたまま動きを止めた。
脈絡のない話題に、ちょっとだけ驚いたという感じの表情だった。
だが、すぐに見慣れた穏やかな笑顔を取り戻す。
こういう切り替えは、とても早い男なのだ。

今日の乾の訪問は、仕事のためだ。
すでに打ち合わせは終え、今はコーヒーを飲みながら雑談をしていたところだ。
乾は仕事とプライベートをきっちりと区別するので、こんなときでも手塚を先生と呼び、敬語も使う。
「ええ。ごくたまに、ですけど」
乾は、大きな手に持っていたカップを、そっとソーサーの上に戻すと、聞き手で眼鏡のブリッジを押し上げた。
これは、話題を変えたいときや、改めて何かを尋ねたいときに良くやる、乾の癖みたいなものだ。

「どうしてお分かりになりました?先生の前では、吸ったことはないはずですが」
口元に笑みを浮かべてはいるが、乾の目は笑っていなかった。
正直に言えば、この時点で、まずいことを言ったかもしれないと思い始めていた。
どうやってごまかそうかを考えてしまったのが、余計に悪かった。
乾に先回りさせる時間を与えてしまった。

「煙草の匂いが残っているのかな」
独り言のように言うと、乾は自分のスーツの胸元に顔を近づけ、息を吸い込んでいる。
だが、すぐに思い直したように顔を上げた。
「いや、今日は吸ってないし、煙草の匂いが染み込むような場所にもいってません」
おかしいなと呟きながら、乾は手塚の目を見ながら首を傾げた。

ここにきて、手塚は本格的に後悔し始めていた。
乾はすでに正解へと近づきつつある。
それは、手塚にとっては一番進んで欲しくはない方向ということだ。
適当に話題を変えようにも、乾相手には難しい。
手塚があれこれ考えているうちに、乾はきっとすぐにゴールにたどりつく。
それならいっそのこと、自分から言ってしまった方がまだましだろうか。

手塚が口を開こうとした瞬間、ほんの少しの差で、乾の方が早く声を上げた。
「あ、わかった」
やっぱり、遅かったか――。
迂闊な自分を悔やんでも、後の祭りだ。

「それ、今日の話じゃありませんね?」
乾は、にっこりと両方の目を細めて笑った。
今度は、心から楽しんでいることが伺える笑顔だ。
「なんのことだ?」
この期に及んで、しらばっくれようとする自分に驚いた。

「僕が煙草を吸うことに気づいたタイミングですよ」
にやりと薄い唇の片方だけを持ち上げて、乾は笑った。
少し意地の悪そうな、だけど妙な色気のある笑い方だ。

「えーと、多分、先週の金曜日の夜。違いますか?」
「そうだったかな。覚えてない」
「いえ、覚えていらっしゃるはずですよ」
乾は、とぼける暇さえ与えてくれない。

「あの日の午後、確かに僕は煙草を吸いました。こちらに伺ったのは夜になってからでした」
乾の言う通りだ。
金曜の夜遅くに乾はこのマンションにやってきて、そのまま泊まっていったのだ。
それは珍しいことではなく、少し前から週末は大抵、一緒に夜を過ごしている。

「キスをしたとき気づかれたんですね?」
乾の人差し指が、コーヒーカップの縁を、つうっとなぞった。
その動きは、手塚の唇や肌に触れるときに、よく似ていた。

「そうとは限らないだろう」
乾の指から目を逸らしながら答えると、くすりと笑う声が聞こえた。
「いえ。きっとそうです。あの日、僕は一度帰宅して、着替えてからここに来ましたからね。服に煙草の匂いはついてないはずです」
そういえば、あの夜の乾は、スーツではなかった。
今頃になって思い出しても遅いのだが。

なにもかも、乾の言うとおりだ。
あの夜、乾と唇を重ねたとき、煙草の匂いがした。
不快だったわけじゃない。
ただ、この男は煙草を吸うのかと、少し驚いただけだ。

きっと乾は、まだ手塚に見せてない顔をたくさん持っている。
残りの顔をどうやって見つけてやろうか。
それを想像したら、小さな発見はむしろ楽しいことに思えた。
だからつい、そのうちのひとつを見つけたのだと、乾に言ってみたくなったのかもしれない。
口が滑った原因が、今わかった。

「煙草はもう止めます」
視線を戻すと、乾は柔らかい笑顔を浮かべていた。
「俺への気遣いなら不要だぞ」
手塚自身は煙草は吸わないが、それほど毛嫌いしているわけでもない。

「じゃあ、あなたとキスしそうな日には吸わないことにします。それならいかがです?」
「君がそうしたいなら」
「ええ。そうしたいと思います」
真顔でそう答えてから、乾はくすくすと笑い出した。
乾は、少しの間笑い続けていたが、おきっぱなしになっていたコーヒーカップを手に持った。
とうに中身は冷めてしまっただろう。

「ところで、僕は今日は煙草を吸っていませんが」
「それがどうした」
「キスしたくありませんか」
「仕事中はならない」
「仕事中でなければ?」
「してもいい」

乾はにっこりと笑って立ち上がった。
そして、まっすぐに玄関に向かい、靴を履く。
ノブを捻り、ドアを開けて、外に出る。

すぐに呼び鈴が押されたが、悔しいから、少しの間待たせてやった。
でも、結局は遅かれ早かれ、やることはひとつだ。
今頃、ドアの向こうで、あの男はくすくす笑っているのだろう。


2009.02.10

タイトルはcharの名曲から。歌詞は無視してください。