白妖

小さな山間の里に男は住んでいた。
濃い黒い髪と切れ長の瞳。
背は高く力も強い。
だが、男が、その大きい手に持つものは、使い込んだ数本の鑿だけ。

その男は大層腕のいい仏師だった。
年端も行かないころから、男は手先がやたらと器用で、みようみまねで木を彫ることを覚えた。
二親を流行り病で早くに亡くし、他に身よりもなかったことから、男は里に住む独り者の仏師に引き取られた。

当時その仏師は女房に死に別れたばかりだった。
自分の子に恵まれなかったこともあり、引き取った子供をを我が子のように可愛がり、手取り足取り仏を彫ることを教え込んだ。
教えられた子供も、水を得た魚のように、見る見ると腕を上げていき仏師を喜ばせた。

時が経ち、いつ所帯を持ってもおかしくない年頃になっても、男の関心は仏を彫ること以外には向かなかった。人当たりもよく、精悍な顔立ちの男に密かに思いを寄せる娘も少なからずいたのだが、男はそれに応えることは一度もなかった。
とんだ変わり者よ、堅物よと笑われても、男は一向に気にする様子もなかった。

暮らし振りは決して豊かではなかったが、仏を彫ることにしか関心のない男には、それは些細なことでしかない。
実際に、男は日々木を彫ることを生業とできる己を、幸せだと思っていた。
いつの日か、自分を育ててくれた父でもある師匠の後をついで、誰よりも腕のいい仏師になること。
それだけが男の願いだった。
木と語り、鑿を友とするような男の腕はいつしか評判となり、その力量を見込まれ、わざわざ遠くの町からも仕事が入るようになっていった。

そんなある日のことだった。

山をひとつ越えた、小さいが由緒ある寺から頼まれていた仏像がようやく仕上がり、男はそれを届けることになった。
一尺ほどの阿弥陀仏を丁寧に布にくるみ懐にしまうと、男はまだ夜も明け切らぬうちに里を発った。


山の中は生い茂った木々で尚一層暗く、朝露に濡れた山道は滑りやすい。
間の悪いことに、二、三日前まで降り続いた長雨で、足場はひどく不安定だった。
男はうっかり転んで懐の中の仏像を壊してはならないと、注意深く歩を進める。
山の中でもひときわ急勾配で、片側が崖のようになってる場所まで差し掛かったときである。
男が足を乗せた大きな石がぐらりと揺れた。
危ない、と思った時にはもうおそかった。
男の身体は口を開ける闇に飲まれるように、崖下へと転がり落ちていった。



濡れている。

何かが男の顔を濡らしていた。
それで気がついた。
やっと目を開けると視界は赤く濁っている。
熱い液体が顔を覆っていることが、ぼんやりとだがわかる。
少しして、それは血なのだろうと思った。
どくどくと流れる血とは対照的に、身体は何も感じない。
しかし、投げ出された手足がひどく冷たい。
痛みはなく、ただ身体が重かった。

死ぬのか。
そう思った。

血とともに自分の命が少しずつ失われていく。
それが悲しいでもなく、自然と理解できた。
仏を彫るだけの生涯だった。
その自分が、こうして仏を懐に抱いて死んでいくのは己にふさわしい。
何も後悔はしない。
ただ、懐の仏像は無事だろうか。
それだけが気がかりだった。

そのときである。

赤く濁っていたはずの視界が白く霞んでいく。
天を仰いでいるのか、地を覗いているのかもわからない。
自分を取り巻く全てが、白い霧で覆われていくようだ。
その霧の中に、かすかに浮かぶものがある。
男は遠くなりそうな意識の中でも、それを見極めようと目を凝らした。

人影、か。

その回りだけが少しずつ霧が晴れ、すらりと立つ白い人の姿を現した。

透き通るような肌に黒い切れ長の瞳。
朝露をそのまま織り上げたような着物も純白で、額にかかる少し長い髪も銀白色だった。
ただ薄い唇だけは、血のように赤かった。

これは人ではない。

男は思った。
こんな美しい人間がいるはずがない。
人の形をした人ならざるもの。

鬼か。
魔か。

そのどちらでも構わない。
もっと近くでその姿を見たい。


「お前は、俺の命を、奪いに来たのか」
声が出たことに自分で驚いた。
どこからか空気がもれるような、耳障りな声ではあったが。

「放っておいても死ぬものを、わざわざ奪ったりなどしない」

低いが不思議と響く声がした。
その声で初めて、この鬼が男の姿であることに気づいた。
白い鬼は、男をただじっと見詰めていたが、ふと何かに目を留めたようなそぶりを見せ、すっと男のもとへと近づいてきた。
鬼の指が男の懐に伸ばされ、血に染まった包みを開く。

「これはお前が彫ったものか」
「そうだ」

白い鬼の言葉に、男は誇りを持って応えた。
それが自分の最後の作だ。

「お前は、鬼か」
男の問いに、答えは帰ってこなかった。

「鬼でも、いい。お前みたいな、綺麗な顔を見たことがない」

白い鬼は、黙って男の顔を見ている。
血の気のない真っ白な肌。
濡れたような黒い瞳。
間違いなく魔性のものでありながら、この鬼の美しさは清らかでさえあった。

「お前を、彫ってみた…」
最後まで言い切る前に男の口から血が溢れ、激しく咽た。
きっと肺に穴でも開いていたのだろう。
急速に命が尽きていくのがわかった。

これで終わりか。

男は思う。
最後に、この美しい鬼を彫ってみたかった。
この鬼の顔ならどんな菩薩にも、どんな明王にも負けないものが彫れただろう。
この手でなら、それが叶ったのに。

男の目が閉じられようとしたとき、「その言葉、忘れるなよ」と声がした。

横たわる男の上に、白い鬼は覆い被さるように顔を近づけた。
そして、血にまみれた男の唇に、己の赤い唇を押し当てた。

「約束だ」

そこで男の意識は、ついに途切れた。





ぼろぼろになった男が、山のふもとに倒れているのが見つかったのは、同じ日の夕方のことだった。
全身が傷だらけで、着ていた物は形も留めいないほどだった。
特に、額には裂け目のような大きな傷があったが、不思議なことに血が固まって、すでに治りかけてるようにも見えた。
その上、こんな状態にも関わらず、懐に入れてあった仏像には傷ひとつ残っていなかった。

男はすぐに家に連れて行かれ、三日ほど目を覚まさなかったが、その後は周囲も驚くような速さで快方に向かった。
壊れなかった仏像といい、男の回復振りといい、きっと仏が守ったのだと里のものは噂した。

だが、男の口からあの日何があったかが語られることは、とうとうなかった。
周りのものも、あんな死ぬような目にあったから、記憶をなくしてしまったのだろうと、それ以上何も聞こうとはしなかった。

すっかり傷の癒えた男は、以前とは別人のようになった。
思いつめた目をして、身の回りを片付けると一人山に篭もった。
捨て置かれた猟師小屋を自分で直し、そこに仏像を彫るための最低限のものだけを持ち込んで生活を始めた。
父代わりの師匠が里へ戻れと言っても、頑として聞かなかった。
ただ悲しげに詫びるだけで、その生活をやめようとはしなかった。

男はただひたすら木を彫り続けた。
いつ寝ているのか、食べているのかもわからない男を心配して、里のものは何かと世話を焼いたが、男のあまりの一心不乱さに恐れを抱くようになり、だんだん通うものはいなくなった。

きっとあまりに腕が立ちすぎて、仏様が男を放そうとしないのではないかと里のものは噂した。
だが、それも一月たち、二月が過ぎる頃には人の口にも上らなくなった。
もはや男を顧みるものは、この里にはいなくなった。




あれからどれだけの月日が経ったのか。

蝋燭の明かりだけが、朽ちかけた小屋の中を照らしていた。
男の前には、ひとつの美しい像が立っていた。

それまで男が彫ってきた仏像とは、全く異質のものであった。
形式というものに囚われない、ひたすら己の中にある衝動を形にしたもの。
あの日見た、あの美しさを具現化ししたいという思いだけで作り上げたもの。
それが、やっと出来上がった。

男はじっと自分の掌を見つめた。

俺はもう死んでいるのかもしれない。

最後に眠ったのはいつだった?
何かを口にしたのは?
覚えていないほど、ずっと前のことだ。
そんなことが生きている人間にできるはずがない。

きっとあの日、あの鬼にあったとき、自分は命を落としたのだ。
だが、どうしてもあの鬼をこの手で彫りたいという思いを捨てきれずに、魂魄だけがこの世に留まってしまったのだろう。
そして今、その思いはようやく遂げられた。

ならば。

きっとこの身にも、漸く死が訪れるのだ。

男は目を閉じて、その瞬間を待った。
思い残すことはない。いい人生だった。
だが、もうひとつだけ願いが叶うなら、あの鬼にこれを見せたかった。
約束を果たしたと、そう告げたかった。



「貰い受ける」

不意に背後から声がして、男は目を開けて振り返った。
そこにはあの日見た、あの白い鬼が同じ姿のままで立っていた。
透けてしまうほどの白い姿で。

「お前は死んではいない」

鬼の言葉に、男は思わず息を飲んだ。

「だが、お前は既に半分人ではない」

鬼は一歩前に進み、男の頬に手を掛けた。

「お前は、私を彫りたいと言った。私もお前の彫るものを見たいと思った。だから私の命を分け与えた」

鬼の赤い唇が微笑む。
そして、男の唇に重ねられた。
かすかに血の味がする。

「お前は約束を守った」
鬼は男の彫った像を大事そうに胸に抱いた。

「これは貰っていく」
そして、男の方へ青白い手を差し伸べた。

「共に来るか?」
「行く」

男は頷いて、鬼の手を取った。
氷のような冷たい手だった。

「共にくれば、完全に人でなくなる。それでも良いか?」
「構わない」

男は冷たい鬼の手を強く握った。

あの日、霧の中でこの鬼に会った瞬間に、俺はこの鬼に恋をしたのだ。
それが今わかった。

「ならば、行くぞ」

鬼は男の手を取り、小屋の戸を開けた。
何も見えない濃い闇が、そこには広がっていた。

「この先の道には、更に深い闇しかない」
怖くはないかと、鬼は笑った。

怖いものか。
すでに人でなくなった者が、闇を恐れるはずなどない。

ただ一度の恋のためなら、人であることなど捨ててしまえる。

男は鬼の白い指に己の指を絡ませて、闇の中に身を投じた。







それから、男の消息を知るものはいない。


2004.6.8

エセ時代モノ。時代考証も何もかもいい加減です。あまり深く突っ込まないで下さい…。イメージとしてはインチキ「巷説百物語」もしくは夢枕獏モドキってところでしょうか?

なんだかわかんないけど、突然浮かんだんです。で、勢いに任せてキーボードを叩きました。本人はものすごく楽しかったけど、よ、読んでくださる方はいるのだろうか。めっちゃ不安です。

一応説明すると、仏師の男=乾で、鬼=手塚です。続きはないです(笑)