Sacrifice
いつの間にか眠っていたらしい。薄く開いた目に映る光景は青い闇に沈んでいた。
真っ暗でないのは、カーテン越しに月の光が差し込んでいるからだ。
これだけ明るいと言う事は、どうやら外は晴れているのだろう。
顔を窓に向けようとしたが、ベッドの上に投げ出した四肢は鉛でも埋め込まれたように酷く重い。
指の一本さえ動かすのは不可能に思えて、乾は月を眺めるのを諦めた。
気がつけば身体は凍りついたように冷え切っていた。
そのくせ、喉と胃はじりじりと焦げ付くように熱い。
吐き気を堪えて息を吐き、乾は再び目を閉じた。
すでに空腹というレベルを超え、今は飢餓状態にある。
飢えに耐えようと唇を噛むと、伸びすぎた牙が食い込み、血が流れ出すのがわかった。
血を絶ってからすでに半月以上が経っているからそれも当然のことだ。
血を糧とする身を持て余しても、それを拒絶するのは難しい。
いっそこのまま飢えて死ねるなら事は簡単だ。
だが、呪われた身体はこんな程度のことでは命が尽きることはない。
限界が近づけば、ただ己を失い獣になるだけ。
そして、恐らくまっすぐに彼の人の元を目指すだろう。
そんな自分を見たくなかった。
浅ましく、汚らわしい自分を許せなかった。
だけど、嫌というほどわかっている。
今、たった一滴の血が飲めるならいくらでも獣に戻れることを。
あの人の血が欲しい。
気が狂うほど。
マスター。
名前を呼びたい衝動を堪え、乾はまた強く唇を噛んだ。
「やめろ。血が出ている」
不意に聞こえた静かな声に、乾は目を開いた。
「なぜここに…いるんですか」
顔はよく見えないが、気配は間違いようもない。
「呼んだだろう?お前が」
「結界を、張っていたはずです」
それだけ言うのにも息が切れた。
思っている以上に体力が落ちている。
ゆっくりと近づいた手塚は、馬鹿にしたように鼻で笑った。
「あんな結界で、俺をどうにかできるとでも?いくつになってもお前は馬鹿だな」
ベッドに横たわったままの乾を見下ろして、手塚はにやりと口の端を持ち上げて笑った。
わずかな唇の隙間から、鋭く尖った牙が見えた。
「もう限界だろう。くだらない意地を張らずに俺の血を飲め」
「嫌です。もう…沢山だ」
手塚は乾の顔を覗き込むように顔を近づけた。
月の光を受け、青い闇の中に真っ白な肌が浮かび上がる。
初めて会ったときと少しも変わらない顔で手塚は笑っていた。
いぬい、と子どもをあやす様な声で囁き、乾の唇を柔らかい舌で舐めた。
「いい子だから、言うとおりにしろ」
「嫌だ」
目を合わせてしまうと、逆らえなくなりそうで乾は固く瞼を閉じた。
強情だな、という声がした。
多分笑っているのだろう。
語尾が途中で途切れてしまっている。
少しの沈黙のあと、衣擦れの音がした。
次の瞬間には強烈で濃厚な血の匂いが流れ出した。
覚えのある、抗えない甘美な匂い。
そして、暖かい滴がぽたりと頬に落ちた。
咄嗟に目を開くと、そこには微笑む手塚の顔があった。
真っ白なシャツの襟を開き、その生地に負けないくらい白い喉には真横に一筋の赤い線。
そこからは赤い血が惜しげもなく溢れ出していた。
人を不死に変える、古代の呪われた血が。
「マスター…あなたは…何をしているんですか」
「お前が飲みやすいようにと思ってな」
「…馬鹿なことを」
「ほら。早くしないと無駄になるぞ?」
くすくすと笑う顔は本当に楽しそうだった。
流れる血は喉を伝い、胸までを染めている。
やっと伸ばした乾の指先に届いたそれは、凍えた膚を熱く焼く。
「お前が食事に来ないから、血の気が余っているんだ。遠慮せずに飲め」
「…マスター」
「さあ。乾」
手塚は溢れた血を自分の左手でぬぐい、それを乾の口に含ませた。
あとはもう抵抗する術がなかった。
頭を抱きかかえられ、差し出された喉に唇を押し当てる。
熱い血が喉を通るたびに、手塚の命の一部が自分を満たしていくのがわかった。
抑えきれない衝動が勝手に身体を動かし、手塚のシャツを剥ぎ取っていた。
「どうして脱がすんだ?」
「血で…汚れる」
「シャツなんかどうでもいい。こっちが先だ」
手塚が乾の手を取り、自分の胸の上に置いた。
「ここの汚れを全部綺麗にしろ」
「はい。マスター」
逆らうことなど出来るはずもない。
強い血の香りに噎せ返りそうになりながら、喉から胸へと流れた赤い筋を舌で舐め取っていく。
舌を這わせるたびに、手塚は楽しげに笑い、肌を震わせた。
「俺が欲しいか?乾」
「ええ」
手塚はくくっと喉を鳴らし、乾の着ていた物を奪った。
そして自分と同じように裸になった背中に手を回した。
滑らかな肌がぞっとするほど心地良い。
「好きなだけ味わえ。お前に血を吸われるのは気持ちがいい」
「どうなっても…知りませんよ。自分を抑える自信がない」
「構わない」
赤い舌を覗かせて微笑むのは、恐らく自分が毒を含んでいることを示しているのだろう。
それでもいいのかと試されているのはわかっていても、差し出された麻薬に手を伸ばしてしまったのだ。
血の染みが付いた手で、乾は手塚の身体を抱きしめた。
すでに飢えは満たしたはずなのに、欲望は少しも収まらない。
いつの間にか組み敷いた手塚の身体をいつまでも触り続けた。
指先と、唇と、舌と、全部で味わった。
牙の先が胸の先端に引っかかると、手塚は甘い声を漏らした。
「何故、俺を抱かない?」
濡れた瞳が光を反射している。
「これ以上、私に穢れろと言うのですか」
「今お前がしていることは、セックスとどこが違うんだ?言ってみろ、乾」
「止めてください…マスター」
乾が目をそらすのを先回りしていたように、手塚の両手が頭を支えて離さない。
「お前は汚れてなどいない」
手塚は返事を返さない唇に軽くキスをして、そのまま乾の首を抱いた。
「安心しろ。これからもお前は綺麗なままだ」
吸血鬼のくせに手塚の腕の中はとても暖かくて、乾はたまらずにその身体を強く抱き返した。
やっと飢えと寒さが収まったからか。
抱き合っているうちに、とろとろと心地のいい眠気がやってきた。
それに気づいたのか、手塚の指がそっと乾の髪を撫で始めた。
頭を乗せた肩には自分がつけた噛み痕がいくつも残っていた。
「俺が憎いか」
すぐ近くにいるはずなのに、手塚の声がとても遠く感じる。
「…ええ。今すぐ…殺したいほど」
髪を撫でる手は止まらない。
頬に息があたったのは、手塚が笑っているからか。
「どうして殺さなかったんだ」
問いかけてくる声は酷く優しい。
幼い頃に聞いたはずの声のように。
眠気はどんどん強くなり、再び目を開くのはとても出来そうになかった。
それよりも、このまま眠ってしまいたい。
だけど、どうしても今言いたいことがあった。
殺したいと言うのは嘘ではない。
何度となくそう思った。
だが、この人の死を願う前に、自分を殺してしまいたかった。
「どうしてだ?乾」
もう一度同じ問いを投げかけられて、乾はやっと口を開いた。
「それ以上に…愛しているから」
それだけ言うのがやっとだった。
あとはもう眠りに落ちていくだけだ。
頭を手塚に預けて、乾はゆっくりと息を吐いた。
「知っていたよ。百年も前から」
睡魔に身を任せる途中で、手塚が小さく笑ったような気がした。
2006.3.14
「Vassalord」設定乾塚。
いくら萌えたとはいえ、読んだ翌日にダブルパロかよ!思わず自分にツッコミ。
なんてゆーか、果てしなく「塚乾」な「乾塚」にぴったりな設定だと思うの。そこんとこ、萌え萌え。
チェリーことチャーリーがいとしくていとしくてたまらん。そしてレイフロがエロくてエロくてたまらん。