青い鳥

「お前は女子には親切なんだな」

同じ台詞であっても、それを誰がどんな状況で口にしたかで、意味は全然違ってくる。
性別、立場、場所、自分との関係。
それらを考えて、言葉の意味を考える。
もちろん、そこに特別な意味はないことだってあるだろう。
逆に、実際の言葉以上に深いものが込めらている場合も予想できる。

今日の場合、判断はとても難しかった。
なぜなら、今の言葉は、手塚が口に出したものだからだ。
十秒ほど考えてもわからなかったので、乾は素直な気持ちを伝えることにした。
目の前に座る手塚は、すでに自分の方を向いてはいない。
他に誰もいない二月の部室は、いっそう静かで寒々しい。
でも静かなのも寒いのも、乾は嫌いではなかった。

「それは、どういう意味なのかな」
「そのままの意味だが」
手塚は開いた日誌の上に目を落としたままで答えた。
お前の顔は見たくないとでも言いたいのか。
左手に持つペンを動かす速度は決して速くはない。
その分、とても丁寧で綺麗な文字が並んでいる。
手塚らしい几帳面さが、乾には好ましく思えた。

昨年の秋に、三年生が全員引退して、手塚は青学男子テニス部の新しい部長となった。
テニスの名門と言われながら、ここしばらく優勝からは遠ざかっている青学が、ふたたび全国が狙えるレベルになったのは、手塚の力が大きい。
手塚が部長になるのは、実力、人間性から考えても当然だったが、生徒会役員を兼任しているとどうしても忙しい。
副部長の大石のフォローだけでは追いつかない部分もあって、乾も自主的にサポートに回っていた。
今日も、部活後に細々と手伝っているうちに、ふたりきりで取り残された。
別に急ぐこともあるわけじゃないし、練習以外での手塚のデータを集められるので文句はない。

休まず文字を綴る手塚の、少し伏せた睫は長い。
背は高いが作りは華奢で、色も白く、肌のきめは細かい。
だけど、手塚に女性的な部分は、少しも見当たらなかった。

「自分では、男女で態度に差をつけているつもりはないな。まあ、多少は女子にはきつい言葉を向けないようにはしているかもしれないけど」
「いや。全然いつもと態度が違っていた」
『違っていた』という過去形の言い方、でぴんときた。
これは、恐らく今日の練習中の出来事を指しているのだ。

青学テニス部は基本的に土曜日にも部活がある。
大きな大会が近づけば、日曜日だって練習する。
今日、二月十四日も、いつも通りに部活があった。

二月十四日といえば、バレンタインデーだ。
男子テニス部には、手塚を筆頭に女生徒に人気のある面子が揃っている。
学校は休みでも、彼らにチョコレートを渡そうと、テニスコートの周りや校門の前には結構な人数の女子が待ち構えていた。
勿論彼女らの目当ての中には手塚が含まれている。

長身で美形。
成績優秀でテニスの強さは全国レベル。
責任感が強く真面目だが、どこか鷹揚な雰囲気もある。
そんな手塚が、もてないはずがない。
ただ生真面目すぎて、少々融通が利かないのだ。
今日の場合、ここが大きな問題だった。

門に入ろうとする手塚に、数人の女生徒が近づくのを、乾はやや後方から眺めていた。
チョコレートを渡す邪魔するのも悪いので、歩く速度を落としてみた。
だが、その心配はなかった。
手塚は、一応足は止めたようだが、女生徒が手渡そうとしているものを受け取らず、そのまま歩いていこうとしていた。
ああ、やっぱりな──。

正直に言って、手塚に直接チョコレートを渡すのは無謀というものだ。
真面目すぎる手塚は、よく知らない相手から物を気軽に受け取るということをしない。
ここからでは聞こえないが、多分、きっぱりと言葉にして断っているのだろう。
手塚を取り巻く女子の顔をみれば、容易にに想像がついた。

同じ断るにしても、もう少しやりようがあるだろうに。
乾は、ため息をついた。
例えば、不二のように優しい言葉をかけてやるとか。
しかし、あの手塚に、女の子を上手くあしらうなんて芸当ができるわけがない。
仕方ない――。
そう思ったときには、勝手に身体が動いていた。

「手塚。受け取ってあげたら?」
手塚の背後から声をかけると、その場にいた女生徒が全員びっくりしたを乾に向けた。
驚いたのは手塚も同じらしく、大きく目を瞠って振り向いていた。

「受け取るだけで、いいんだよね?」
「はい」
女の子達は、声を揃えて返事をする。
「手塚はこの通りの性格だから、ホワイトデーのお返しとか、多分できないと思うけど、それでもいいかな」
その場にいた全員が、それでもいいと頷き、次々と乾の前にチョコレートらしき包みを差し出した。

「じゃあ、これ」
それをまとめて受け取り、手塚に渡す。
一度、じろりと乾をにらみ付けたが、元々が義理堅い性格だ。
「ありがとう」と女生徒に向かって小さく頭を下げた。

部活中も女子達が入れ替わり立ち代りやってきた。
中には、ちらほらと他校生もいるようだ。
結局その対応をするのも乾の仕事になった。
手塚の分だけでなく、他のの部員あてのチョコレートも乾が受け取り手渡してやる。
恨めしそうな顔で乾を見上げる子もいたけれど、殆どの女子は満足して帰っていった。

「女子には優しい」なんて言われる心当たりは、これくらいしかないので、まず間違いはないだろう。
余計な口出しだったことは、自分でもわかっている。
だけど、ありったけの勇気を振り絞って、チョコを手塚に渡そうとする姿は、どの子もみんな健気で可愛かった。
あんなところを見てしまうと、受け取るだけで喜んでくれるなら、それでいいじゃないかと思ってしまう。

「単なるお祭り騒ぎだろう?少しくらいつきあってやってもいいじゃないか」
「変に期待させるのは嫌だ」
手塚は下を向いたまま、厳しい口調で反論する。
「送る方だって、本気じゃないんだ。チョコレートをもらうだけで、そこまで深刻に考えなくても」
「俺はお前とは違う。誰にでもいい顔をするなんてことは出来ない」
やっと顔を上げたかと思えば、冷たい目でにらみ付けてくる。
よほど機嫌が悪いのだろう。

「ずいぶんな言いかただな」
「印象をそのまま言っただけだ」
こんな言い方をされても、不思議と腹は立たない。
それよりも、手塚が珍しく感情的な言葉を吐くのが新鮮で面白い。
つい悪戯心が起きてしまい、わざと煽るようなことを言いたくなってしまった。

「俺が女子に優しいのが、手塚は、おもしろくないみたいに聞こえるよ」
「おもしろくはない」
手塚は文字を書くのを止め、乾の顔を正面から見据えていた。
乾にとっては、少々意外な答えだった。
反論を予想しての言葉を、素直に認めるとは──。

「それじゃ、まるでやきもちを焼いているみたいじゃないか」
手塚はぱたんとペンを置き、そのまま黙り込んでしまった。
怒らせたのかと思ったが、どうもそんな感じではない。
さっきまでは、明らかに不機嫌な顔をしていたが、今は無表情だ。
どんどん予測のつかない状況に向かっているようで、乾は少しだけ緊張した。

「それに近いかもしれない」
ずっと黙っていた手塚が、やけに冷静な口調で呟いた。
「それだと、手塚が俺を好きみたいだぞ」
反射的に口走ってから、とんでもないことを言ったと気づいた。
だが、言ってしまったものはしょうがない。
今度こそ手塚が怒り出すだろうと思って待っていたが、また乾の予想は外れてしまった。

「多分そうだ」
「え?」
いつもと同じ、よく通る声だった。
怒るわけでも、戸惑うわけでもない。
凛と響く手塚の声は、乾ひとりに向けられていた。

「今、わかった。俺はお前を好きなんだと思う」
「あ、そうなんだ」
「どうして驚かない?」
「いや、十分驚いている」
「どう見ても、落ち着いているぞ」
「顔に出ないタイプなんだ」
「ふざけているのか?」
「まさか」
「そういう手塚も落ち着いているな」
「自分では、よくわからない」

わからない者同士の会話だな、と乾は思った。
さっき言った言葉は嘘ではなく、好きだと言われて、本気で驚いた。
だけど、自分でも不思議なくらい、落ち着いてもいる。
というより、この状況をよく理解できていないのだ。

ずっと乾の顔を見つめ続けていた手塚は、思い出したように日誌の上に目を落とした。
置きっぱなしのシャープペンシルを手に取ったが、文字を書く様子はない。
カチカチとノックして芯を出し、それを指先で押し込んでは、またノックする。
それを数回繰り返してから、急に顔を上げた。

「お前は、気持ちが悪くないのか」
「なにが?」
「同性に好きだと言われたんだぞ?」
それが普通の反応だ──。
手塚の目が、そう語っていた。

「どうして俺が手塚を気持ち悪いと思うんだ」
とても理不尽なことを言われている気がした。
意味は理解できても、自分に向けられるのが不愉快だった。
自分の手塚に対する気持ちを軽く見ないで欲しい。
口にしたのが手塚本人であっても。

「俺は」
そこで一度止め、刺々しい声になっていないかを確認し、その先を続けた。
「手塚を尊敬しているし、憧れてもいるし、大切な仲間だとも思っている」
これは、気遣いやお世辞の類ではなく、本心からの言葉だ。
初めて間近で見たときから、手塚は乾の理想であり目標だった。

強い選手、すごい選手なら、他にも沢山いる。
でも、他の選手と手塚とでは、決定的に違うものがある。
手塚のテニスは、綺麗だった。
恵まれた資質と勘、完璧な技術は、手塚の精神と結びつき、奇跡的なバランスを保ち形になる。
その場にいるだけで、胸を打たれるようなテニスだった。
間近で見られるだけでも幸せなのに、、今はともに勝利を目指すチームメイトでもある。
そのことを、どれだけ誇りに思ったか。
形はどうあれ、そんな相手から好意を寄せられて、気持ちが悪いなんて冗談でも言えるはずがない。

乾が話し終えても、手塚は沈黙したままだった。
揺るがない視線は、まっすぐ乾を見つめ続けている。
言うべきことは言ったはずなのに、まだ何かが足りない。
痛いくらいに強い手塚の視線を受け止めていると、気が焦る。

「それに」
むりやり言葉を継ぐと、手塚の眉が微かに動いた。
「それに、なんだ?」
静かだけれど、胸の奥まで染み込むような声だった。
ごまかす事は許さない。
きっと手塚はそう思っている。

言葉のかわりに、大きく息を吐いた。
考えなくは、いけない。
今、すぐに。

どうして、あれだけ手塚にこだわり続けたのか。
データを集めたかったのは、本当に勝つためだけだったのか。
全力で追いかけて、必死で手を伸ばして、どうしても手に入れたかったのは、手塚のテニスなのか。
もしかしたら、本当に欲しかったのは、テニスじゃなくて──。

「あ」
唐突に思い当たる、ひとつの事実。
少し考えれば、すぐにわかっただろうに。
だが、考える機会すら、今までなかった。

真っ直ぐに自分の進む先を見つめている燐とした手塚の眼差し。
太陽光線を無理やり肉眼で見るような怖さを感じながら、その眩さにどうしようもなく惹かれていた。
今、乾が目にしているのは、追いかけ続けた横顔ではなく、真正面を向く顔だ。
その視線の先には、乾自身がいる。

手塚のテニスが好きだ。
そして、テニスをする手塚が好きだ。
手塚のようなテニス、では駄目なのだ。
あまりに単純で、あっけないくらいに明快な事実。
驚くより先に、笑い出したい気分だった。

「俺もわかったよ」
乾が笑いかけても、手塚は何も言わなかった。
次の言葉を待っているようだった。
「多分、俺も手塚が好きだ」
「多分か」
ぴくりと手塚の片方の眉が持ち上がる。

「手塚もさっきそう言ったろう?」
「言ったか?」
「ああ。言ったよ」
「記憶にないな」
「忘れるの、早過ぎないか」
手塚は、一瞬、部活中によく見せる怖い目つきで乾を睨んだが、急に困ったような表情に変わった。

「いつもの俺じゃないのかもしれないな」
ぼそりと呟く声は、いつになく小さい。
「誰かに、好きだなんて言うのは初めてだから」
手塚は少しうつむいて、自分の手の甲のあたりを見ているようだった。
不安定な首の角度に、どきりとする。

本当に、手塚は自分のことが好きなのだ。
それが唐突にリアルに感じられて、鼓動がどんどん早くなる。
「あ。今頃、どきどきしてきた」
乾がそう言ったとたん、手塚は顔を上げて睨み付ける。

「やめろ。こっちまで、どきどきする」
「いや。だって、本当にするんだからしょうがないじゃないか」
「だから、そういうことを言うな」
そう言われても、簡単に鼓動は静まらない。
逆に、どんどん顔が火照ってきたのが、自分でわかる。
だから余計に恥ずかしい。

そんな姿を見られたくないのに、手塚が赤くなっているところは見たいのだから、困ったものだ。
眉を吊り上げて怒った顔をしていても、赤く染まった耳たぶが、長めの髪のすきまから見え隠れしている。
可愛いと思ってしまった自分に、さらに照れてしまう。

どうして、今まで気づかなかったのだろう。。
目が悪いからと、見たいものに近づきすぎたのが悪かったのかもしれない。
捜し求めていた青い鳥が、すぐ傍にいることに気づかなかった童話のように。
でも、青い鳥がどこかに羽ばたいて言ってしまう前に見つけただけでも、幸運だったのかもしれない。

「手塚」
「なんだ」
ぶっきらぼうに答える手塚の耳は、まだ赤い。
「えーと、キスとかしちゃってもいい?」
「駄目だ。絶対、駄目だ」
手塚はものすごい早口でそう答えた。

「なんで二回言うのかな」
「俺に聞くな」
他に誰に聞くのかと思うが、それは言わずに、別な提案を持ちかけた。
「じゃ、触ってもいい?」
「どこを」
「あー、どこにしよう」

怒っているのか、怯えているのか。
手塚は不機嫌そうに眉を顰め、口を堅く結んでいた。
そういう顔も可愛いと思うのは、やっぱり惚れているからだろうか。
そもそも、手塚を可愛いと思ったことなんて、今まであったのか。

ああ、多分、本当はあったのだ。
そうとは気づかなかっただけで。

「左手はどう?」
「それくらいなら、別にいい」
ほんの僅かだが、手塚の表情が和らいだのを、乾は勿論見逃さなかった。
自然と笑いが毀れてしまう。
手塚の方は、そこまでの余裕はないようだ。

それでも、乾の方から手を伸ばすと、恐る恐るという感じで、手塚もそれに倣う。
ゆっくりと差し出された左手に、自分の手を載せてみた。
初めて、そうしたいと思って触れた手塚の左手は、想像していたのよりもずっと暖かかった。

2009.02.28

VD話のはずだったのですが。
さらっと短い話になる予定でしたが、まさか2月末までかかるとは。
自分でびっくり。