フリップフロップ

今にして思えば、乾は最初に出会ったときから、少しだけ変わっていた。
それは、あくまでも、『少し』。
ぎりぎり、人の印象にうっすら残る程度の変人ぶりで、決して集団の中から浮き上がってしまうことはない。
恐らく緻密な計算に基づいた加減なのだろう。

乾は時々、焦ったとか驚いただとか口にするけれど、実際は言うほど動揺なんかしていない。
冷めた自分を誰かに悟られないよう、そんなふりをしているだけだ。
乾ほど上手に主観と客観を使い分ける人間を、僕は知らない。

一歩間違えば、とても嫌な奴だったと思う。
でも、乾はどこか憎めない。
それは、肝心なところが抜けていたり、根っこは案外素直だったりするからかもしれない。

「不二って、頭がいいんだな」
僕が、乾の印象を正直にぶちまけたとき、本人が言った感想がそれだった。
「それに、目と耳もいい」
「視力はいたって普通だよ。三年になってから少し悪くなったかな」
「視力の問題じゃない。洞察力が鋭いんだ」
「君に言われても、あんまり嬉しくないね」
ひどいな、と乾には珍しく目を細めて笑ってた。

これが、きっかけだった。
僕と乾の距離が少し縮まって、他の誰かには言えないことを話すようになったのは。
乾には、辛らつとも受け取れるような遠慮のない言葉も、わりと平気で口に出せた。
それが乾にしてみたら、手ごたえがあるように感じられたのかもしれない。
テニスに関することは勿論のこと、様々なことが僕らの話題になった。

気が合うという表現は、少し違う。
性格だって、全然似ていない。
でも、なぜか僕達は、互いをよく見通すことが出来た。
最初から、それぞれの設計図を持っていたかのように。

「不二といると、すごく楽だ」
二人きりになると、乾は時々そう呟いた。
その理由も、僕はちゃんとわかっていた。
楽じゃない相手を、乾は好きになっていたからだ。

「どうでもいい相手だから、でしょ?」
「そんなことはない。ちゃんと俺は不二が好きだよ?」
「君が好きなのは、僕のテニスだよ」
「両方だと思ってくれよ」
「無理」
僕の短い言葉に、乾はただ薄いを浮かべる。

今の言葉は、嘘だ。
乾が僕を好きなことは、わかっている。
僕も乾が好きだ。
それは、誰にも遠慮することなく、口に出来る種類の好意だ。
その程度の『好き』だ。

乾が本当に好きなのは。
好きすぎて、言葉に出来ないほど思い続けている相手は――。

何があろうとも、乾は自分からその名前を口にすることは、ないだろう。

馬鹿だなと思う。
言ってしまえば、いいのに。
本当は、彼だって同じなのに。

彼と乾の性格も好みも、僕と乾以上に似ていない。
だけど、彼らはとても近いところにいる。
多分、本人達は気づいてないんだろう。

彼らの波長は、共鳴し合って、綺麗に重なる。
最初から対になるために作られたように響く。
言葉ではなく、空気が語っていることを、彼らだけが気づかない。
近すぎて、見えなくなるものは、きっと本当にある。

先に気づくのは、きっと乾じゃなくて、彼の方だ。
追いかけているのは乾だけれど、追いつく前に、彼が乾を捕まえる。
そのとき、乾はどうするのだろう。

乾のことだから、追いかけるのは得意でも、逆はつまらないなんて言い出すのかもしれない。
それは、ただの言い訳で、本当は逃げ出したいだけなのだ。
好きで、好きで、どうしようもないくせに、怖くて仕方ないから。

だけど、それも時間の問題だ。
結局は彼に捕まえられる。
だって、走る速度は彼の方がずっと早いんだから。

2008.07.18

不二様視点、中学生乾塚。塚が出てこないけど、乾塚。
言うまでもなく、「彼」が手塚です。