銀箭
突然の雨が、音を立てて降り出したのは、ジャージから制服に着替えている真っ最中のことだった。他の部員は既に帰宅してしまい、部室の中には、乾と自分しかいない。
近々ある練習試合の件で、二人だけで打ち合わせをしていたのだ。
勢い良く降る雨の音が、静まり返った狭い部屋の中に、やたらと大きく響く。
窓ガラスの表面を、凄い勢いで雨が伝っていくのが見えた。
「天気予報では一日晴れのはずじゃなかったか?」
窓の外を眺めて呟くと、乾も後ろから覗き込み、「大はずれだな」と笑った。
ついさっきまで、真っ青だった空は、今は濃い灰色の雲が重苦しく覆っている。
部室の中も、思わず灯りを付けたくなるほど暗い。
こんなことなら、もう少し早いうちに帰ってしまえばよかった。
「手塚、傘はあるか?」
乾はシャツのボタンを嵌めながら、顔だけを手塚に向ける。
「ない。お前は?」
「俺も持ってない。でもまあ、この雨じゃ、あまり役に立ちそうもないけど」
確かに、これだけ激しい降りでは、傘を差してもずぶ濡れになるだろう。
手塚は、もう一度暗い空を見上げて、雲の様子を確かめた。
こんな風に突然空が暗くなって激しく降り出すのは、夕立の典型的な特長だ。
恐らくは、長い時間降り続くことはない。
手塚の見たところでは、せいぜい三十分以内には止みそうな感じだ。
「多分、少し待てば止むと思う」
そう言って振り向くと、乾は携帯電話を取り出し、じっと液晶画面を見ているところだった。
「うん。そうみたいだな」
どうやら、リアルタイムの気象情報を確認しているらしい。
「じゃあ、ここで雨宿りしていくか」
手塚の提案に、乾も頷いた。
二人で、もう一度ミーティング用の椅子に腰掛ける。
今度はノートも何も出していないので、少々手持ち無沙汰な感じがした。
黙っていると、雨の音が余計に大きく聞こえる。
窓は締め切っているのに、あまり暑く感じなかった。
「そういえば、手塚はアウトドアな趣味があるんだったな」
「なんだ?いきなり」
急な話題に驚いて、乾の顔を見ると、くすりと小さく笑う。
「いや。雲を見て天気を判断するなんてのは、朝飯前なのかなと思って」
「朝飯前というのは、大袈裟だな。でも、確かに釣りや登山では必要不可欠な知識だとは思う」
「そうだろうな」
乾は、手塚の趣味に興味が湧いたのか、いくつかの質問をしてきた。
あまり人に説明するのが得意な方ではないが、乾の聞き方が上手いので、自然と会話がスムーズに進行する。
誰かと話をすることを楽しいと感じるなんて、滅多にないことだ。
しかも、話題はテニスに関することじゃないのに。
でも、確かに、乾との会話を楽しんでいる自分がいる。
不思議な感覚だった。
乾とは、普段からよく相談に乗ってもらうので、二人きりで話す機会も多かった。
だが、こんな風に自分のことを話すのは、今まで一度もなかったような気がする。
話す内容がいつもと違っているからなのだろうか。
乾の印象自体にも、少し違和感がある。
うるさいくらいに激しい雨が降っているのに、薄暗い部室の中は、どこか密やかだった。
話す乾の声も、浮かべる表情も、とても静かだ。
さっきまでの乾と、今、目の前にいる乾が同じに思えない。
そして、この場所も雨が降り出す前とは違って見えた。
見たことのない乾の顔。
聞いたことのない乾の声。
止まない雨。
ゆっくりとしか進まない時間。
雨に閉じ込められたこの場所は、世界と隔絶している気がする。
時間も音も雨に吸い込まれたのかもしれない。
銀色の矢の様な雨と、屋根を叩く音が、慣れた場所をいつもと違う空間に作り変えてしまったのか。
そんなはずはないとわかっているけれど、それでもいいと思っている。
一緒に閉じ込められたのが乾じゃなかったら、きっとこんなことは感じなかった。
「どうした?寒いのか?」
「いや、なんでもない」
乾は、少しだけ心配そうな表情を浮かべていたが、それ以上詮索することはなかった。
「ああ、小降りになってきたみたいだ。空が明るくなってきた」
窓の方を向いて座っていた乾が先に立ち上がった。
「本当だな」
手塚も後に続いて立ち上がる。
乾は少しだけ窓を開けて、外の様子を伺っている。
吹き込んだ風は、雨の匂いがした。
「ごめん、手塚。俺、嘘ついてた」
「なんのことだ」
隣まで歩いていって顔を見上げる。
窓枠に手をかけたまま、乾はふっと微笑んだ。
「実は俺、置き傘があるんだ」
「え?」
「折り畳みの傘がね。1本あるんだよ」
「どうして使わなかったんだ」
それは正直な気持ちだった。
確かに酷い雨ではあったが、傘があるなら帰ろうと思えばどうにかなったはずだ。
なぜ、わざわざ嘘をついてまで雨宿りしていたのか。
手塚を置いて一人で先に帰るのが気まずかったのだろうか。
そんな気遣いは無用なのに。
「なんとなく、手塚と閉じ込められてみたくて」
半分は困ったように、残りの半分は楽しそうな顔で、乾は笑っていた。
「俺といても、つまらないだろう」
「そんなことはない。楽しかったよ」
乾の声は、やっぱりいつもと違う。
静かで深いその声には、雨がよく似合う。
ずっと聞いていたいと思ったのは、今日が初めてだ。
どうしてかは自分でもわからない。
「ああ、見て。手塚」
乾の指差す方向の空は、厚い雲が途切れて、陽が差していた。
まっすぐに走る光の矢は、まるで宗教画のようだ。
綺麗だねと呟いたときの乾の横顔を、手塚はそれから暫くの間、忘れることが出来なかった。
2008.07.31
中学生乾塚。銀箭=銀色の矢。強い雨の例えだそうです。