ごめんね
乾の声を好きだと思うようになったのは、いつ頃だったろう。はっきりとは覚えていないが、ふたりで話すことが多くなった二年の秋くらいだったかもしれない。
その頃、引き継いだばかりの部長という役割をこなすのに精一杯だった自分を、乾はさりげなくサポートしてくれていた。
乾に好感を持つようになったのは、それがきっかけだった。
同じテニス部、同じレギュラーとしてしか意識していなかった乾が、少しずつ特別な意味を持つ存在になっていく。
恐らくは、その過程で、乾の声が好きだと気づいたのだろう。
同じ年頃に比べると、やや低音で落ち着きのあるその声は、大人びた容姿や物腰と、とてもよく釣り合っていた。
そして、ふたりきりのときに聞く声は、もっともっと深く優しく、艶があることも知った。
そこに乾がいなくても、後からふっと思い出せる。
いれば、ずっと聞いていたい。
そんな種類の声だった。
「ごめんね」
枕に埋めていない方の耳が、静かな声を捉えた。
重たい身体を起こすのが億劫で、首だけを僅かに捻る。
少しぼやけた視界には、半分困ったような笑顔が見えた。
部屋の灯りは消してあるが、ベッドサイドのスタンドライトの光が目に入って眩しい。
それを避けるためにもう一度枕に顔を埋めると、後頭部をそっと撫でられた。
子どもを宥めるようでもあるし、どこか艶かしくもある。
乾の指の動きは、いつもそんな風だ。
手塚が返事をしないのを、怒っているとでも思ったのだろうか。
乾は、再び優しい声で詫びの言葉を口にする。
「ごめんね、手塚」
冷気から守ろうとするように、乾の大きな手が肩を包み込んだ。
「どうして、謝るんだ」
「え?」
肩に乗せられていた手が、ぴくりと動く。
枕から顔を上げても、今は乾が光を遮っているから、眩しくはなかった。
「悪いことをしたわけでもないのに、謝るな」
手塚の言葉に、乾は驚いたように目を見開いたが、それは一瞬のことで、すぐに楽しそうな笑顔に変わる。
「確かに、悪いことじゃないな。どっちかと言えば、いけないことって感じかな」
乾は、自分の言葉に自分でくすっと笑い、手塚の身体を緩く抱きしめた。
「久しぶりだったから、ちょっと無理させたかなと思ったんだ」
疲れているように見えたし――。
乾の低く柔らかい声が耳をくすぐる。
こんな色気のある声を中学生が出すなんて、反則だと思う。
だからこその違和感だ。
そのことに、きっと乾自身は気づいてないだろう。
教えてやるべきか、それとも余計なお世話か。
とりあえず、やたらと嬉しそうな顔をしている乾に、まずは聞いてみることにした。
「乾」
「なに」
返事をする乾の唇は、手塚の額に触れそうで触れないギリギリの場所にあった。
「お前は、どうして、ごめんねと言うんだ」
「いや、だから、それは今」
説明したばかりだと、乾は言うつもりなのだろう。
「そういう意味じゃない」
いつも自分に言葉が足りないのはわかっている。
でも、肝心なときに限って察しが悪いという、おかしなところが乾にはある。
手塚が言いたかったのは、ごめんねという言葉そのもののことだ。
およそ中学生らしくない言葉遣いや、態度をとる乾なのに、なぜ謝罪の言葉がそれなのか。
乾なら、もっと違う言葉を使いそうなものなのに。
いつも「ごめんね」と、少し甘えたような声音で手塚に謝る。
それがずっと不思議だった。
手塚よりもずっと大人で、経験も豊富。
ひと癖もふた癖もある厄介な性格。
だけど、安心して自分を任せられる余裕がある。
乾はそんな奴だと思っていた。
「じゃあ、どういう意味だ?」
理知的な黒い瞳が、今は訝しげに細められている。
「…いや、もういい」
「言ってくれないか。気になる」
「いいんだ、もう」
手塚は、両腕を乾の首の後ろに回し、軽く唇を押し当てた。
少しの間、乾はじっとしていたが、ふっと笑う気配がした。
そして、手塚を抱く腕に力を入れ直した。
手塚が心地よいと感じる絶妙の力加減だった。
こんなことをさらりとやってのける男が、甘ったれた口調でごめんねと謝る。
そのアンバランスさを、可愛いと思ってしまった。
しかも手塚がそう思っていることを、乾は知らないのだ。
それは、アドバンテージをとったようで気分がいい。
変なところでお人よしな乾は、この先、何度も手塚に謝るだろう。
「ごめんね」と、少し困ったような笑顔を浮かべて。
それを見れば、きっと自分は嬉しくなってしまう。
本当に謝らなければいけないのは、自分の方だ。
でも、それは当分の間、口にする気は、さらさらなかった。
2008.10.05
簡単に言えば、「ごめんね」萌えなんでしょう。「ね」がポイント。
仮タイトルは「ごめんね、Darling」でした。恥ずかしさに耐え切れず、「ごめんね」になりました。