Hiccup
まだ六月だというのに、嫌になるほど暑い日だった。だが、それ以外は何の変哲もない、ごく普通の一日と言えた。
事件というのは、大抵の場合は、そんなときに起きる。
基本的に手塚は、練習中に大声を出すことは少ない。
テニス部全体に号令をかけたりするのは手塚の役目だが、部員に細かい指示を出すのは専ら副部長である大石の仕事だ。
だが、関東大会が間近に迫っているこの時期、レギュラーには特別な練習メニューが組まれる。
今日のレギュラー陣は試合形式での練習が行われていて、部長の手塚本人が指示を出していた。
一見すると普段と少しも変わらない手塚だが、その言葉の裏側には、関東大会にかける熱い思いが伺える。
手塚の真剣さが伝染したように、自然と部全体に、緊張感が漲っていた。
テニスコートの中では、二年生の桃城と三年生の河村がシングルスの試合をしていた。
試合といっても形式的なことで、細かい部分を調整しながらの打ち合いだ。
今日のところは、河村の勝利で終わったが、正式な試合ではないので、二人ともそれほど結果を気にしてはいない。
笑顔でコートから出て行く二人に、他の部員達がお疲れ様の声をかけていた。
空いたコートには、次は誰が入るのか。
まだ名前を呼ばれていないレギュラーが、手塚の指示を待っていた。
手塚は左手に持っているボードを確認して、二人の選手に目をやった。
「越前、不二」
ここまでは、良かった。
だが、次が良くない。
手塚の言葉を待つ部員達の耳に、妙な音が聞こえてきた。
ひゃくっ。
それに続いて、いつもの冷静な声。
「……コートに入れ」
そして、また妙な声。
ひゃくっ。
部員達には、一瞬何が起きたのかが、理解できなかった。
手塚の周りには、嫌な静けさが漂っている。
「聞こえなかったのか?越前。不二」
冷たい目が、じろりと二人をにらみ付けた。
「……いや、聞こえましたけど」
「それよりさ。今、君」
名前を呼ばれた二人は、困惑した顔を見せている。
ここでまた、手塚は、ひくっと喉を詰まらせた。
手塚部長が、しゃっくりをしている。
その場にいた全員が、同時に状況を理解した。
「聞こえたのなら、速やかに移動しろ」
手塚はあくまで冷静かつ真剣だ。
しかし、実際は、この短い言葉の間に二度ほど、しゃっくりが挟まって、声がひっくり返っていた。
部員達は、猛烈に苦しんだ。
手塚が冷静な顔をすればするほど、笑えてくる。
しかし、あの手塚の前で笑い出すなど、自殺行為にも等しい。
必死で笑いを堪え、聞こえてないふりをする。
だが、流石は青学の天才だ。
彼に怖い物など、存在しない。
不二は、ぷっと小さく吹き出すと、そのまま声を上げて笑い出した。
「ちょっと、大丈夫かい。手塚」
口にしたのは手塚を気遣っている言葉だが、面白がっているのは明らかだ。
「何がだ」
手塚は憮然として答えた。
「すっごく激しい、しゃっくりじゃない?」
あはは、と高らかに笑う不二を、下級生達は尊敬の眼差しで見つめている。
「なんの問題もない」
部長は、それが何だと言わんばかりの形相で不二を睨んでいるが、当の天才はまるで気にしていない。
さすが、天才は心臓の出来が違うと、生意気なことを売りにしているルーキーでさえ感心していた。
「あ、あのな、手塚。しばらく息を止めてみたらどうかな。しゃっくりが治まるかもしれないぞ」
さすがに副部長の大石だ。
こんなときには、すかさずフォローだ。
額に汗を浮かべながら、手塚の傍に近寄ってきた。
「それよりも、コップの水を一気飲みするのがいいんじゃないかにゃー」
「いや、コップの水を、手前じゃなく向こう側から飲む方が確実っすよ」
「コップに十字に割り箸を置いて飲むって、やったことないか?」
「ね、ね。手塚、豆腐って何で出来てる?」
「大豆」
「越前が答えて、どうするんだよ」
一斉にレギュラー達が、わいわい言い始めた。
自分のために色々と助言してくれるのは有難い。
だが、今はそんなことはどうでもいいと、手塚は思った。
「俺に構うな」
一応気を使って、控えめに言ってみたが、レギュラー達は、「しゃっくりの止め方」で異常な盛り上がりをみせていた。
自分の知っている方法が、もっとも効果があると言って譲らない。
既に手塚のことなんて、どうでも良くなっているのではないか。
その証拠に、今では誰一人として手塚の方を向いている人間はいなかった。
いい加減、練習に戻れ。
そう怒鳴ってやろうと息を吸った。
そのときだ。
とんとん、と背後から手塚の肩を叩く者がいた。
「手塚」
特徴のある声が手塚の名前を呼ぶ。
部長が振り返ると、そこにはいつの間にか乾が立っていた。
度の強い眼鏡が、初夏の日差しを受けキラリと光っている。
「なんだ?」
乾はじっと手塚の顔を見つめている。
言いたいことがあるなら早く言え。
多少苛ついていたので、そう促すつもりで、強い口調で名前を呼んでみた。
「乾」
乾は愛用のノートを脇に挟むと、いきなり手塚の肩を掴んだ。
しゃっくりの振動で、その肩が揺れる。
何をするのかと思う前に、乾のもう片手が手塚の後頭部を押さえ込んだ。
ぐぐっと乾の顔が近づいてくる。
反射的に頭を引く。
だが、乾の大きな手がそれを遮る。
「乾?」
一体、何のつもりだ。
唇がどんどん迫ってくる。
しかも進む先は、どうも自分の口元のような予感がする。
「乾、やめろ」
懇願するような声になったのを、手塚は自覚していた。
このままでは、乾の唇が自分の唇に触れてしまう。
一度も経験したことのないほどの距離まで、乾の顔が迫っていた。
もう、駄目だ。
「やめろ、この馬鹿!」
手塚の怒声がコートに響いたのと同時に、乾は1.5メートルくらい吹っ飛んでいた。
地べたに尻餅をついているのに、ノートと眼鏡は死守しているのは、さすがだった。
だが、そんなことに感心するどころではない。
手塚は、完全に頭に血が上っていた。
「お前は、お前は、何を考えているんだ!」
乾は片手で眼鏡のズレを直しながら、ぼうっと手塚を見上げていた。
惚けた顔には、何を考えているのか、さっぱり見えない。
人にこんなことをしておいて――。
頭に上った血が、さらにふつふつと沸騰した。
「グラウンド!」
何週走らせようかと、一瞬頭の中で考える。
が、怒りと混乱で、すぐに言葉が出てこない。
一度息を吸い込んだとき、やけに落ち着いた声が聞こえてきた。
「手塚」
地べたに座り込んだままの乾は、上目遣いで手塚を見ていた。
「……止まったようだよ」
「え?」
何を言われたのか意味がすぐには飲み込めなかった。
手塚の背後にいた不二の方が、先にそのことに気がついた。
「本当だ。手塚の、しゃっくりが止まっているよ」
おお、とか、ああとか言う声が部員達から一斉に上がる。
「良かったな!手塚」
大石は満面の笑みを浮かべて、手塚の肩を叩いた。
「あ、ああ」
たかが、しゃっくりが止まったくらいで、ここまで喜ばれるのは、少々複雑な心境だ。
だが、止まってくれたこと自体は、嬉しい。
というより、有難い。
「さて、何周走ればいいかな?」
振り返ると、乾は、ジャージの尻を叩きながら立ち上がるところだった。
右手には、しっかりとノートを持っている。
手塚は、少し考えてから、目の前に突っ立ている長身に向かって答えた。
「10周だ」
「そんなもんでいいのか?」
乾は左に軽く首を傾げている。
やや、拍子抜けしたような表情だった。
惚けた顔をすると、案外愛嬌があるのだなと、手塚は気がついた。
「一応、俺のしゃっくりを止めようとしてくれてのことだろうからな」
「まあ、確かにそうだけど」
「だが、選んだ手段は不適切だ。だから、10周だ。いいな?」
「了解。じゃ、行ってきます」
乾はノートをベンチの上に置くと、軽い足取りで走り出した。
その後を追いかけるように、手塚も走り出す。
速度を上げて、乾の横にぴたりと付ける。
そして、そのまま乾と併走した。
「なんで手塚も走るんだ?」
走りながら、ちらりと乾が視線をよこす。
「お前を殴ったからだ。理由はどうあれ、暴力は良くない」
「なるほど」
乾は軽く頷くと、また前に向き直った。
しばらくそのまま無言で走っていたが、五周ほど回ったところで、乾がすっと近づいてきた。
軽く手塚が視線を向けると、低い声で話しかけてくる。
「もしかして、手塚のファーストキスだった?」
「……未遂だ。唇は触れていない」
「じゃ、触れていれば初めてのキスだったってことか」
しまったと思ったが後の祭りだ。
「それは残念」
乾は息も乱さず、薄い唇でにやりと笑う。
そんな顔を見たのは、初めてだった。
「更に10周、追加するぞ」
「はいはい。もう言いません」
真顔に戻った乾は、一定のスピードを保ったまま、手塚の横を走り続ける。
心地よいリズムの足音が、自分の心音と重なっていく。
本当は、一瞬唇が掠ったことを、死んでもこの男には言ってはいけない。
乾という人間を良くは知らないが、それだけは直感でわかる。
走る手塚の耳が赤いことに、気づいたものは誰もいなかった。
2008.01.13
出来上がってない乾と手塚です。おバカ中学生です。タイトルは「しゃっくり」そのまんまを英語にしてみました。
少し前に「しゃっくりが止まらなくなる手塚はどうか」と、拍手で送っていただいたんです。
想像するとあまりに可愛くて、ぜひそれを使わせてほしいとお願いしたところ、快くOKして下さいました。
出来上がっていない二人を書くのは久しぶりで、楽しかった!本当にありがとうございました。