百葉箱
初めて、それに気づいたのは、五歳くらいのときだったと思う。当時住んでいた家から、そう遠くない場所に、小学校があった。
いつかは自分もそこに通うことを、漠然とだが理解していて、近くを通るたびに、わくわくするような気持ちで校庭を眺めていた。
そして、ある日、気づいたのだ。
校庭の片隅に、ひっそとり佇む、白い箱。
いや、当時はそれを箱だとは認識しなかった。
五歳の子どもの目には、それは小さな小さな家に見えた。
青々とした芝生の上に建つ白い小さな家。
それが百葉箱だと知るのは、もう少し後のことになる。
青学テニスコートの上には、欠片ほどの雲も浮かばない、真っ青な空が広がっていた。
遮るもののない場所に、攻撃的な太陽光線が容赦なく降り注ぐ。
帽子を被っているテニス部員は越前くらいだが、今日のような天気だと全員が被るべきなのかもしれない。
だが、強制したところで、誰も大人しく被りはしないだろう。
そもそも、自分だって面倒だ。
それにしても暑い。
六月に入ったばかりとは思えない天気だ。
乾は額の汗を右手のリストバンドで拭い、視線をぐるりと巡らす。
外側のコートの脇で、腕組みをしている部長を視界に捉えた。
すぐ隣には副部長も立っているので、丁度いい。
「手塚、大石」
近づいて声をかけると、彼らは揃ってこちらを向いた。
「なんだ?」
「今日は、かなり気温が上がっている。早めに休憩を取った方がいんじゃないか」
特に、球拾いをしている一年生達は、まだ体力がないので相当バテている。
それを目で教えると、手塚は軽く頷いた。
「わかった。交代で、休ませよう」
頷いたのは手塚だが、てきぱきと後輩に指示を出すのは大石だ。
このあたりのコンビネーションは絶妙なものがある。
「今、何度だ?」
乾がつけている腕時計は、温度を測れること手塚は知っていた。
「聞きたいか?」
乾がにやりと笑うと、手塚は僅かに眉を顰めた。
悪い癖だといつも思う。
綺麗な顔をしているのに、勿体無い。
だが、その表情は、正直なところ嫌いじゃない。
手塚の不機嫌そうな顔は、どこか色っぽい。
「お前も少し休憩したらどうだ?」
口を開いたときには、手塚はもう眉を戻していた。
「そうさせてもらうよ」
部長直々の許可をもらったので、言葉に甘えることにする。
片手にタオルを持ち、立ったまま後ろのフェンスに持たれかかると、手塚もそれにつきあった。
珍しいこともあるものだ。
フェンスの向こうには、テニス部のOBが植えた記念樹が並んでいる。
それがいい具合に日陰を作るので、休憩を取るのには持って来いの場所だった。
タイミングよく心地よい風が吹き、手塚の前髪を揺らした。
夏だというのに、手塚の額は白い。
これでも、多少は日に焼けているのだろうが、他の部員に比べれば焼けたうちには入らない。
良く見れば汗の粒が浮かんでいるが、整った横顔は涼しげにさえ見えた。
今まで会ったどんな人間よりも、綺麗だと乾は思っている。
綺麗だから好きになったわけではないが、乾を惹き付けている要素であることは疑いようもない。
「なんだ?」
見られていることに気づいたのか、手塚は乾の方に向き直った。
遠慮のない真っ直ぐな視線に射抜かれそうになる。
いや、とっくの前に、心臓のど真ん中を貫かれているのだ。
その自覚が乾にはある。
「なんでもない」
視線から逃れるために、むりやりに遠くを見る。
乾のいる場所からは校庭が見渡せる。
なぜかはわからないが、いつもは忘れている、白い百葉箱が目に入った。
確かそう新しいものではなかったはずだ。
ここからだと細部は見えないが、ところどころ塗装が剥げていた様子を思い出せた。
「手塚」
「なんだ」
「あそこに百葉箱があるって知ってたか」
乾が指差した方向を、手塚は少し目を細めて眺める。
「ああ、そういえばあるな」
校庭の片隅の芝生の上に、ひっそりと置かれているものだ。
今思い出した風なのも頷ける。
「小さい頃、あれがすごく不思議な物に見えていたな」
半分ひとりごとのような呟きだったが、手塚も小さく頷いている。
「俺もそうだ。中には、絶対何かが住んでいると思っていた」
「何かって?」
「リスとか、小人とかだな」
言ってから、しまったと思ったのだろうか。
手塚は気まずそうな表情で、口を閉じていた。
「手塚の口から出たとは思えない言葉だな」
「悪かったな」
不機嫌そうな顔で言い捨てたが、乾がくすくすと笑うのに釣られたのか、やがて手塚もふっと微笑んだ。
風がさやさやと二人の間を吹き抜けていく。
「中身を見たとき、少しがっかりした記憶がある」
手塚は遠くを見る目で、ぽつりと呟いた。
「え?そうか?俺はもっと百葉箱が好きになったけどな」
確かにそこは、小人が住んでいそうな佇まいだった。
だが、小学校に上がって、初めて中を見たときは、本当に驚いた。
それまで見たことのない温度計や湿度計が、別のときめきを乾に与えてくれた。
「気圧計や乾湿球なんて初めて見たからな。最高最低温度計や自動温度記録計には、感動すら覚えたよ」
百葉箱を中を見せてもらったときのことは、今でも、はっきりと覚えている。
あの童話の世界にあるような白い箱の中身は、科学の入り口に繋がっていたのだと知った瞬間だった。
誰も見ていないときにも、あの中では黙々と温度や湿度を計測し続けている。
そのからくりに感動し、おとぎ話なんかよりも遥かにリアルで雄大な夢と憧れをもらった気がした。
「お前らしい」
乾の言葉に、手塚は微かに笑ったようだった。
知らなかったことを知るのは、いつだって楽しい。
だけど、知ってしまったことで、夢が壊れたとがっかりしたことは一度もない。
知れば知るほど、その先や、もっと違う一面をと、欲が出る。
手塚の方に、自然と目が向いた。
風に揺れる髪をそのままに、手塚はじっと乾を見ている。
同じだ――。
ひとつ知ることで、新たな興味が湧く。
こんなに攻略しがいのある人間は、そうそういない。
二年と数ヶ月かけてやっとわかったことと言ったら、その薄い唇の柔らかさと掌の温度くらいだ。
「ちょっとサボりすぎたかな」
フェンスから離れ、乾が自分の腕時計を覗き込む。
「たまにはいい」
手塚は部長のくせに平然としていた。
「お前は他の部員よりも多く動いてくれているからな」
「レギュラー落ちしたからね。サポートはできる限りさせてもらうさ」
「いつまでも白いTシャツを着ているつもりはないんだろう?」
青学テニス部レギュラーの証に袖を通した手塚は、腕組をして不適な笑顔を浮かべていた。
「まあね。それなりに準備はしているつもりだ」
つい昨日こっそり測った背筋と握力が、過去最高記録だったことは今は言わない。
間近に迫ったランキング戦で、見せてやるつもりだ。
「楽しみにしている」
そう言い残して、手塚はすたすたと乾の前を横切り歩いていった。
すぐ後を追うと、強く吹いた風に手塚の髪が持ち上がり、うなじが露になる。
白い首筋には、小さなほくろがひとつあること乾は知っている。
それもつい最近、偶然見つけたものだ。
きっと、乾以外に知っている人間は、ごく少数だろう。
もしかしたら、手塚本人でさえ気づいていないかもしれない。
手塚の口からは聞きたくない。
他人から聞かされるなんて、冗談じゃない。
自分で見つけなければ意味のないことが、まだ沢山残っている。
2008.08.12
ランキング戦直前。ちゃんと出来上がる直前でもあります。今は一度だけはずみでキスしたくらいの仲。
百葉箱にロマンを感じるのです。きっと乾もそういうタイプだと思う。