夏のこども

最後なんて、言葉を使いたくなかった。
だけど、どんなに抵抗しようが、目を反らそうが、季節は過ぎていく。
俺と手塚の、最高で最後の夏は、もう終わってしまった。




重たい鉄の扉を開けると、視界が青く抜けていた。
本格的な秋はまだ訪れていないけれど、風が少しだけ冷たいようだ。
見上げた空の色は、真夏とは違う。
かわいた空気を一度大きく吸い込んでから、振り返りもしない後姿に向かって声をかけた。

「手塚」
ゆっくりと振り返った手塚の髪が、風になびいている。
「やっぱり、いた」
俺がそう言うと、手塚は少し目を細めて、小さな声で呟いた。
「お前か」
「ご挨拶だな」
近づいて笑いかけても、手塚はにこりともしなかった。

全国大会が終わると、三年生は自動的にテニス部を引退する。
優勝で締めくくられた部活動に未練はないはずだが、寂しくないといえば嘘になる。
だから、引退したはずの俺達は、なんだかんだと理由をつけて、後輩達が汗を流すテニスコートに頻繁に顔を出した。
嬉しそうに出迎えてくれる奴、また来たのかと憎まれ口を叩く奴。
反応はそれぞれだが、結局こちらの好きなようにさせてくれるのは、敬意の表れなのだろう。

「今日は部に顔を出さないのか?」
今は、夏が終わるまでは、テニスコートの上にいた時刻だ。
手塚も部を引退してから、空いてしまった時間をうまく過ごせないでいる。
それだから、俺ほどではないにしろ、週に何度かは部に姿を見せる。
手塚は横目で俺を見上げると、いつものように眉を寄せた。
とたんに、青学テニス部の部長にみえるから、おかしなものだ。

「そう毎日行ってたら、流石に嫌がられるだろう」
手塚は俺から視線を外し、フェンスに左手をかけた。
細い指先が急な角度で曲がっている。
「まあ、そうだな。うるさい先輩がいなくなって、せいせいしているんだろうから」
「自覚があるなら、なおさらだな」

俺は小さく笑い、フェンスにもたれかかって天を仰いだ。
空の青さが目に痛い。
目を閉じても、まぶたの裏に光が浮かぶ。

「少し、話をしていいか」
「構わない。どうせ暇だ」
「それはお互い様だ」
俺の言葉に、今度こそ手塚も軽く笑ったようだ。

遠慮せず、暇つぶし程度の他愛も無い話をした。
今日受けた授業のこと。
昨日見たテレビのクイズ番組のこと。
毎日テニスボールを追いかけていた頃には、ほとんど口にしたことのない話題ばかりだ。
そんな話でも、今は楽しい。

まるっきり、普通の中学生の時間だ。
こんな当たり前のことが、そうでなくなるときがくる。
それがわかっているから、この時間が愛しかった。
あの手塚が、ずっとつきあってくれていることも――。

話し込んでいるうちに、少しずつ陽が傾いてきた。
気づけば西の空が、オレンジ色に変わりつつある。
手塚は遠い目をして、呟いた。
「空が赤くなってきたな」
「うん。もう帰らなきゃ」

そう言いながらも、俺達は、突っ立ったままだった。
どんどん燃えるような色に変化していく空を、ただ黙って見つめていた。
帰りたくなかった。
帰したくもなかった。

俺達は日が落ちる前に帰らないと、叱られるような子どもじゃない。
だけど、好きなだけ、誰かと一緒にいられる自由を持つほどの、大人でもなかった。
下校時間を告げる音楽が聞こえてきたら、もう帰るしかない。

「行くか」
ぽつりと手塚がそう言った。
「そうだな」
帰るという言葉を使わなかったのは、ささやかな抵抗だったのかもしれない。
俺と手塚は同時に歩き出した。

ほとんどの生徒が帰ってしまったらしく、校舎の中はしんとしている。
夕焼けの差し込む階段は、鮮やかな茜色に染まっていた。
一歩先を行く手塚の白いシャツも、オレンジ色に見える。

あと半月もしたら、この夏服を着る手塚の後姿を見ることはなくなるのだ。
もう二度と。
肩甲骨の形がうっすら浮かぶ、この華奢な背中を、ずっと追いかけてきたのに。

「手塚」
呼ぶつもりはなかった。
気づいたら、声が出ていた。
「なんだ?」

足を止め、振り向いた手塚の髪が、さらりと揺れた。
一段降りて、手塚の前に立つ。
茶色の髪に光が反射していた。
それに、触れたいと思った。

気づいたら、手塚の身体を抱き寄せて、唇を重ねていた。
手塚の背中は薄く、骨ばった感触がする。
俺と手塚の眼鏡がぶつかり、かちんと硬質な音を立てた。

すぐに唇を離すと、手塚は真っ直ぐに俺を見ていた。
「ごめん」
「……別に、謝ることじゃないだろう」
手塚の視線が、ふっと横に逸れる。

「そう、かな」
「そうだ。…初めてじゃないんだし」
「うん。そうだな」
俺は笑って、手塚から手を離した。
手塚も少しだけ微笑んで、また俺の前を歩き出した。

「乾」
「なに」
「卒業する前に、もう一度俺とダブルスを組んでみないか」
「いいよ。でも、誰と試合する?」
手塚は振り返り、俺に笑って見せた。

「桃城と海棠は、どうだ」
「いいね。面白そうだ」
「じゃあ、決まりだ」
手塚の左腕には、まだサポーターが着けられている。
これは、必ず完治させるという意思表示なのだろう。

「楽しみにしてるよ」
俺の言葉に、手塚は黙って頷いた。
そして、窓の外に視線を向けた。
「綺麗な色だな」
「そうだな。明日も、きっと晴れる」

手塚は眩しそうに目を細め、それからゆっくりと俺の先を歩いていった。
きっと、俺は明日も明後日も、そのずっと先まで、この背中を追いかけ続けるのだろう。

これが、俺にとっての、本当の夏の終わりの日だった。

2008.09.16

拍手で、とんでもなく萌えるコメントをいただいたので、必死でキーボードを叩きました。
書けてよかった。ありがとうございました。