ラベンダーの罠 オマケ

てづか、と呼ぶその声は、確かに覚えがあった。
空気を含んだような、やや低めの落ち着いた声。
でも、今、耳をくすぐる響きには聞き覚えがない。

優しいと言えばいいのか。
甘いと表現するのが近いのか。
知っているはずなのに、知らない声を、もう少しだけ聞いていたい気がして、手塚は、すぐには目を開けられなかった。
背中と肩が、とても暖かい。

「手塚、起きて」
ああ、やっぱりこれは乾の声だ。
重たい瞼をこじ開けると、視界は斜めに傾いていた。
「気持ちよく寝てるとこ悪いけど、そろそろ時間だ」
驚いて、身体を起こす。
今度は視界がぶれ、一瞬自分がどこにいるのかを、見失った。
寝起きの目には、真っ青な空が眩しすぎる。

「そんなに慌てなくても大丈夫だ。あと五分ある」
乾の声が、驚くほど近いところから聞こえる。
自分が、つい先ほどまで、どこでどうやって眠っていたのか、わかった。
かっと、頭に血が上る。
それを悟られたくなくて、軽く頭を振ると、隣で乾がくすりと笑った。

「俺はどれくらい寝てたんだ」
フェンスに手をかけて立ち上がると、乾もゆっくりとその場に立った。
「ん?少しだよ。たいした時間じゃない」
乾は薄く笑いはしたが、正確な時間を答えなかった。
「戻ろう」
愛用のノートと弁当箱を手に持ち、鉄の扉に向けて歩き始めた。
手塚は数歩遅れて、乾の背中を追う。

乾は、自分と同じで、背ばかり先に伸びて、まだ筋肉が追いついていないのだと思い込んでいた。
だが、こうやって追いかける背中は、存外に広い。
あの肩にもたれて、自分は眠っていたのかと思うと、不思議な感じがする。
寝心地は、きっと悪くなかったのだろう。
あれだけ熟睡していたのだから。

「すまなかったな。肩が凝っただろう」
「いや、別に。手塚、軽いから」
乾は、軽く振り返って、唇に少しだけ笑みを乗せた。
「ああ、でも、今はちょっと肩が寒い気がするな」
何が、『でも』なのか、意味がわからない。
だから、何も言わないことにした。

「手塚。前髪」
「え?なんだ?」
「直したほうがいいよ」
片手をドアノブにかけたまま、乾は僅かに目を細めた。
空が眩しかったのか、笑ったのか、手塚には区別が、つかなかった。

2008.04.22

寸止めです。祭だ、わっしょい。といっても、どこまで続くか怪しい。