水ぬるむ (R15)
「手塚って、ずるいよな」ベッドの端に腰をかけた手塚は、黙って首を捻り、横たわったままの乾に視線を向けた。
振り返った眼鏡のない顔は、薄っすらと汗ばんでいる。
切れ長の黒い瞳は、僅かな光を反射させていた。
「なんの話だ」
左手には500ミリのミネラルウォーターのペットボトル。
乱れた髪もそのままに、手塚はキャップを回し、乾の返事を待たずに口をつけた。
「常に冷静沈着で、作り物みたいな綺麗な顔で、試合中でさえ滅多に表情を変えない」
乾の言葉は、ちゃんと聞こえているのだろうが、それを無視して手塚は水を飲み続けた。
顎を持ち上げると、喉もとの白さが一段と目立つ。
水を飲み下すときに動く喉仏の動きが、薄暗い部屋の中でも良く見えた。
「それなのに、ベッドの中では、あんな顔をするんだからな」
今、乾からは手塚の背中だけが見える。
その白い肌を隠すものは何もない。
狭い部屋の中には、二人分の熱気みたいなものが残っているから、全裸でも少しも寒くない。
「ギャップがあり過ぎだ。卑怯だよ」
乾も眼鏡はかけていなかったが、この距離なら手塚の反応は見て取れる。
目で見えるもの以外から伝わるものも、案外多いのだ。
手塚はずっと黙ったままだけれど、乾の言葉にはしっかり聞いていることはわかっている。
乾は、小さく笑って上半身を起こした。
「そもそも、手塚が俺の誘いに乗ったこと自体が予想外だけどね」
「どういう意味だ?」
やっと手塚が首をひねり、乾に顔を見せた。
だが、その表情からは何を考えているかは伺えない。
「手塚が、あっさり俺と寝るとは思わなかったんだ」
お互いに好意を持っていると気づいてから、身体を重ねるようになるまで、予想以上に早かった。
特に抵抗することもなく、乾に抱かれる手塚に、少なからず驚かされた。
もちろん、それ以上に喜びの方が強かったが。
「俺にだって性欲くらいある」
つまらなそうに言って、手塚は手の中のペットボトルのラベルに視線を落とす。
ただそれだけの仕草なのに、その横顔は、絵画的に美しい。
「手塚は、そんな風には見えないんだよ」
「それは、お前がそう思いたかっただけだ」
身体の向きを変えて、乾の顔をほぼ正面から見据えて、手塚はほんの僅かだが、微笑んだ。
「ああ、確かに」
手塚に言われたことは、自覚があった。
強く激しく望んでおきながら、同時に遠ざけようとしていた。
欲しくてしょうがないくせに、自分のものにしてしまうのが、怖かったのかもしれない。
それくらい、手塚は自分にとって、特別な存在だったのだ。
「でも、今は、ちゃんと知っているよ」
腕を伸ばし、むき出しの華奢な肩を抱くと、まだ熱が残っていた。
「手塚が、俺と寝るのが好きだってこと」
背中から身体を抱きしめても、手塚は抵抗しない。
左手の中のペットボトルを、手の甲ごと上から包み込んだ。
「俺にも一口くれないか」
「ああ、悪いな。全部飲んでしまった」
「え、もう?少しくらい残しておいて欲しかったな」
「諦めろ」
「じゃあ、これで我慢するよ」
可愛くないことを言う唇を、自分の唇で塞いでやる。
水を飲んだ直後のそこは、冷たく湿っていた。
僅かな隙間から舌を滑り込ませ、口の中に残った水分を味わう。
手塚は唇を開き、乾の好きにさせている。
ひやりとしていた口の中は、少しずつ温くなっていく。
互いに貪り、絡み合わせた舌は、もう同じ温度に変化した。
無意識のうちに、抱きしめる手に力が入る。
やっと身体を離したときには、二人同時に大きく息を吐いた。
「やっぱりこれだけじゃ足りないな」
疲れたのか、手塚は身体を倒し、枕に顔を埋め、視線だけを乾に向けた。
「水を飲んでくるけど、その間に眠ってしまわないでくれよ」
「どうして寝ちゃ駄目なんだ?」
「戻ってきたら、もう一回やろう」
手塚は、ふっと目を細めた。
「わかった」
「じゃ、いってくる」
乾がベッドから降りると、手塚は毛布を肩に引き上げ、挑発的に微笑んで見せた。
「俺の身体が冷えないうちに戻って来い」
「了解」
脱ぎ捨ててあったシャツを引っ掛け、急いでキッチンへと向かう。
冷蔵庫から、水を取り出し、グラスに空けず直接口をつけた。
よく冷えたミネラルウォーターはとても旨い。
だけど、さっき手塚の口の中から分けてもらった水の味が、どうしても忘れられなかった。
2009.03.15
「水ぬるむ」は春の季語。
高校生くらいのイメージで。