一月一日
謹賀新年白い年賀はがきに、くっきりとした墨の文字が刻まれていた。
紙の白さと黒々とした筆文字のコントラストが、鮮やかだ。
一文字ずつ、丁寧に力強く書かれた賀詞は、手塚の几帳面さが透けて見える。
数行に渡る添え書きは、誰にでも使える当たり障りのないものではなく、明らかに乾ひとりに向けて綴られた内容だった。
今時、賀詞や添え書きだけでなく、宛名までも筆で書くのは珍しい。
文字自体も、高校生としては相当に達筆だ。
普通なら、これが高校生の出す年賀状とは思えないのだが、相手が手塚だと話は別だ。
むしろ、手塚がパソコンで作成した年賀状を送ってきたら、そっちの方が何倍も驚く。
「手塚らしい」
つい、声に出して言ってしまう。
それほどに、手塚らしさに溢れた葉書だった。
他にも、自分宛に届いた年賀状は数枚ある。
それらは一通り目を通してから、軽くそろえて机の上に置いてある。
手塚から送られたものだけを手に取り、何度も読み返した。
初めてもらったのは、中学一年のとき。
高校二年になったから、これで五枚目だ。
どの年賀状も、やぱり丁寧な手書きだった。
添えられた版画と思われる絵は、干支だったり、花だったりと毎年違う。
手塚からの年賀状を見るのは、乾の正月の楽しみのひとつになった。
必ず、一月一日に届くのも手塚らしい。
乾は、愛用のパソコンにつながっている、インクジェット複合機の電源を入れた。
そこに届いたばかりの手塚からの葉書をセットして、両面をスキャンし画像データとして保存する。
これも、今年で五回目だ。
スキャンした画像を確認してから、年賀状は、特別な葉書専用のホルダーに入れた。
中身は手塚からもらった年賀状と暑中見舞いしかない。
手塚本人にも、このことは話していない。
正直に言えば、年賀状なんて、あまり興味がない。
中学までは、親しい友人や顧問の教師くらいには、なるべく出すようにしていた。
高校に入ったら、それも面倒になって、メールで済ませるようになった。
だけど、毎年、たった一枚だけ親から年賀葉書を分けてもらう。
乾が年賀状を出すのは、手塚だけだ。
手塚一人のためにパソコンで作成し、添え書きだけを手で書いている。
全部手書きするのは、なんとなく照れくさいから、これでいい。
来年も、手塚はきっと、乾に手書きの年賀状をよこすだろう。
自分もまた、パソコンでさくっと作った風に装って、手塚一人のために年賀状を作るだろう。
あと、どれくらいこのやり取りが続くかは、乾にもわからない。
わからないから、楽しいのだ。
今日も、朝から、いつ配達されるか、ずっとそわそわしていた。
こんなに、手塚からの年賀状を待ちわびているなんて、当の本人は知らないはずだ。
今後も、わざわざ話すつもりはない。
乾が出した年賀状も、もう手塚のもとに届いたろうか。
それを確かめる電話をしたら、年賀状の意味がないと、手塚は自分を笑うだろう。
笑われてもいいから、ありがとうと伝えたい。
2011.01.03
手塚は毛筆で年賀状を書くというのは、MYデフォルトです。