怒らない人

喜怒哀楽が、わかりやすい人間だとは、最初から思ってない。
だが、少し踏み込んでつきあえば、予想以上によく笑うやつだとわかる。
今では、寂しそうな顔も、困りきった顔も、そう珍しいものではなくなってきた。
でも、乾が本気で怒った顔だけは、出会って三回目の春が来ても、見た覚えがなかった。

「どうして、お前は怒らないんだ?」
「どうしてと言われても、腹が立たなければ怒りようがない」
そんなことは、わかっているが、今聞きたいのはそんなことではない。
質問の仕方を間違えたことに気づいて、手塚は思わず眉を寄せる。
乾は、コピー済みの紙の端を揃えながら、きょとんした顔で首を傾げていた。

もともと、口が達者なほうではないが、乾相手だと更に説明不足になる傾向が、自分にはある。
唐突なタイミングでの、唐突な質問なのに、乾は驚きもせずに冷静な返事をよこす。
乾は常に、こんな調子なので、手塚が説明を忘れてしまうのは仕方ないと、自分では思っている。

今日はテニス部の練習がない日だ。
部員はそれぞれに好きに時間を過ごすが、手塚は生徒会の雑用があって忙しい。
たまたま近くを通りかかった乾を、無理やり助っ人として生徒会室に引っ張ってきたのだ。
他の役員達は一人帰り二人帰りして、結局残ったのは乾と手塚のふたりだけだった。

今までにも何度か手伝いを頼んだことがあるから、生徒会の中では乾は顔見知りになっている。
元から必要以上に先輩風を吹かせる性質ではないので、下級生からも気さくに話しかけられていた。
ときには、調子に乗った後輩が、手塚には絶対言わないような馴れ馴れしい口の利き方をしたり、失礼なことを言うことがある。
そんな場合でも、乾はさらりとかわして決して怒ったりはしない。
傍で聞いている手塚のほうが、むっとするくらいなのに。

考えてみれば、手塚だって「暇そうな顔をしている」とかなんとかいって、強引に連れてきたのだ。
そのときも乾は嫌な顔ひとつしなければ、恩着せがましい態度も見せず、気軽に引き受けてくれた。
なぜ、乾は怒らないんだろう。
そういえば、部活中も、真剣な表情を見せることはあっても、怒った顔を見せたことはなかったように思う。

「お前の怒った顔を見た覚えがない」
「まあ、そう短気なほうでもないし」
後片付けをしながらの会話は、相変わらず焦点が、ほんの少しずれている。

「手塚は、怒らせたいのか?」
「そうじゃない。単に、怒った顔を見たことがないのが気になったんだ」
「怒らせてみればいい。そうしたら見られるんじゃないか?」
半透明のゴミ袋を手にして、乾は楽しそうに笑う。

「そんな科白を言う奴が、簡単に感情的になるとは思えない」
「俺だって、怒るときは怒るさ。手塚が知らないだけ」
「俺のいないところでなら、怒るのか?」
「まあ、そうかな」

手塚以外の人間は見たことがあるのに、自分だけが知らない顔があるというのか。
なんだか、すごく面白くない。
いつも、手塚が一番好きだなんて、歯の浮くようなことを平気で言うくせに。

多分、誰よりも乾の笑顔を沢山見ているという自信はある。
甘えた顔や、寂しそうな表情だって、恐らくは手塚くらいしか、ちゃんと見た人間はいないだろう。
でも、自分だけがまだ知らない顔があるなら、それだって見たいと思うのは、我侭だろうか。

「どうして、俺の前では怒らないんだ」
「手塚と一緒にいると、それだけで嬉しいから、怒る気分にならない」
部屋中のゴミを集めて膨らんだビニール袋を部屋の隅において、それがどうかしたかという顔で、手塚を振り返った。

「話にならない」
かあっと頭に血が上る。
「馬鹿じゃないのか、お前」
頭だけじゃなく、頬が火照っていることはわかっていた。
だから、乾に背を向けて、わざと大きな音をさせて立ち上がった。

「手塚が怒って、どうするんだよ」
背後から聞こえる乾の声は、とてつもなく間抜けだった。

2008.05.03

幸せボケ乾。乾は手塚をからかってるんじゃなくて、本気なんですよ。そういうことをけろっと言えちゃう子なんです。受け的攻めっ子(意外と攻撃力は高い)乾の特徴だと勝手に思ってます。