レイリー散乱
重たい鉄の扉を、体重をかけて押し開く。錆びた金属が擦れる音には、どうしても慣れない。
だが、四角いドアの向こうに広がる空は、別の世界のように青く澄んでいる。
それを見たくて、自分はこの場所に通っているのだ。
「今日は、どうしたの?」
剥き出しのコンクリートに足を踏み出したとたん、聞きなれた声がした。、
青空を背景に、乾は片足を投げ出してフェンスにもたれていた。
関節の目立つ大きな手には、厚めの文庫本を持っている。
いつも肌身離さず持っていた、お馴染みのノートは、ここしばらく見ていない。
部を引退したら、もう用はないということか。
だが、乾のことだから、きっとまだデータを捨てたりは、していないだろう。
「何がだ」
歩きながら答えると、乾は少し眩しそうに目を細めて笑った。
「来るのがいつもより、五分ほど遅い」
手塚は返事をせずに、黙って乾の隣に座り、横目で乾の顔を見た。
乾は特に気にする様子もなく、手にした文庫本をぱらぱらと捲っている。
手塚が隣にいるので、本気で読む気はないのだろう。
乾と屋上で話をするようになったのは、二年に進級してからだったと思う。
最初は偶然だったが、何度も顔を合わせるうちに、いつのまにか自然と通うようになった。
1組の手塚と11組の乾とは、教室がかなり離れていて、部活以外で顔を見ることは滅多にない。
乾とは、一度も同じクラスになることは、なかった。
同じ高校に進まないことがほぼ決定しているので、二度とそんな機会は訪れない。
残念だとも思うし、これで良かったという気もしていた。
黙り込んだままの手塚に、乾は何も言わない。
今のように、誰かと沈黙したままの時間を心地よいと感じたのは、乾が初めてだった。
だから、こんな風に、毎日のように乾に会いにきてしまうのかもしれない。
「手塚、昼食は?」
「教室で済ませた。お前は?」
「うん。俺はさっきここで食べた」
乾のすぐ傍には、きちんと包み直された弁当箱らしきものが置いてある。
週に何度かは、購買で買ったパンを食べているが、今日は手作りだったらしい。
弁当箱の横には、牛乳の紙パックも置いてあった。
静かな時間だった。
校舎の中には、大勢の人間がいるはずなのに、ここにいると少しも気配を感じない。
どこまでも広がる澄んだ青い空と、少し冷たい空気。
そして、時々聞こえる乾の声。
話す内容なんて、なんでもよかった。
隣にいるのが乾で、その落ち着いた声が聞こえるだけでいい。
失くしてしまうには、あまりに惜しい時間だった。
「さて。そろそろ、教室に戻ろうか」
乾は弁当箱や文庫本を手に持って、立ち上がった。
座ったままの手塚を見下ろして、昼休みが終わっちゃうよと微笑んだ。
普段は冷たく見えるのに、目を細めただけで、とたんに人懐こい顔になる。
その顔が、とても気に入っていた。
立ち上がった手塚を見て安心したのか、乾はこちらに背を向けて歩き出した。
手塚は咄嗟に乾の右腕をつかんでいた。
驚いた顔で乾が振り向く。
「何?」
眼鏡の奥の黒い瞳に、青い空が写りこんでいる。
「好きだ」
言うのは、今日しかないと思っていた。
今日の天気が快晴だと知ったときから。
だけど、どんな言葉で告げたらいいのか、わからなかった。
それが、ここに来るのが五分遅れた理由だ。
だが、口を付いたのは酷く単純な言葉だった。
「ずっと、好きだった」
乾は一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの冷静な顔になる。
でも、手塚を見つめる瞳は、何か痛々しいものを見るようだった。
「手塚」
乾は自分の手首を握る手塚の手に、もう片手を乗せ、そっと外す。
そして、ほんのわずか唇の端を持ち上げた。
「それは、錯覚だよ」
ひゅうと、強い風が吹いた。
動けなかった。
声も出せなかった。
ただ立ち尽くす手塚の前で、乾はゆっくりと踵を返して、歩いていく。
絶対に振り返らないと、その広い背中が語っていた。
錯覚とは、なんだ。
この気持ちを、お前はわかるのか。
その背中に叫んでやろうかと思った。
出来るはずはないと、わかっていたけれど。
知っているのだ。
きっと。
だから、乾はああやって自分に背を向ける。
馬鹿な奴だ。
「馬鹿野郎」
声に出して言うと、なんだか笑えてきた。
もう一度、繰り返す。
「乾の馬鹿野郎」
ますます、笑いがこみ上げる。
鉄の扉は目の前で閉じられようとしていた。
手塚は、そこを目指して走り出した。
迷いはなかった。
妙に清々しい気さえした。
思い切りドアを開け階段を見下ろすと、乾はまだ踊り場にいた。
「乾!」
声をかけると、ぴたりと乾の足が止まった。
「明日も、ここに来い」
乾は首だけを捻って、手塚の方を向いた。
少しだけ眉を寄せ、困ったような表情をしている。
「…手塚」
その先を言わせるつもりは、手塚にはなかった。
「いいな。絶対に、来い」
乾は暫く同じ顔のままその場にとどまっていたが、やがて呆れたように大きく息を吐いた。
「わかったよ」
観念したというように乾はふっと笑い、じゃあねと片手を上げて階段を下りていった。
乾は決して約束を破ったりはしないだろう。
そして、明日またここで、二人同じ空を見上げるのだ。
手塚は片手で押さえていたドアをもう一度大きく開き、後ろを振り返った。
目にしみるほどの澄み切った青い色を、いつまでも見ていたかった。
2007.09.22
塚→乾です。きっと続きを書きます。ずっと頭の中で、ある曲が流れているんですが、それは続きを書いたときに明かします。
そらが青く見えるのは、レイリー散乱によるのだそうで。散乱って言葉が、なぜか好きなんです。