レイリー散乱2
錆びの浮いたドアの向こうは、やはり別の世界に繋がっているようだ。見上げると、昨日の続きみたいな、真っ青な空が広がっていた。
歩き出した途端、少し冷たい風に髪をさらわる。
軽く首を振って、顔にかかった髪の毛を払うと、乾が静かに微笑んでいるのが目に入った。
乾は時々、とても優しい顔で笑う。
それに気づいたのも、この場所だった。
だから、ここが好きだったのかもしれない。
「今日は早かったな」
「ああ」
乾はいつもと同じ顔、同じ姿勢で、フェンスにもたれていた。
少なくとも手塚の目には、そう見えた。
隣に立つと、乾は眩しそうに手塚を見上げた。
「それが昼食か?」
「うん」
購買で買ったらしいパンがいくつか、乾の膝の上に乗っていた。
後は紙パックの牛乳だけ。
「それで夕食まで持つのか」
「部活がないからね」
テニスをしないなら、さほど腹も減らないし、家にも早く帰ることになる。
だから、軽めの昼食でも、平気だということだろう。
手塚も隣に座って弁当を広げた。
今日は最初から屋上で食べようと思っていた。
手塚が食べ始めると、乾も黙ってパンを齧る。
会話らしい会話は何もなかったが、乾となら沈黙を息苦しいと思うことはない。
静かだった。
壁の白、空の青。
目に映る何もかもが明るく、音という音が空気に吸い込まれていくようだ。
その寂しさが、とても心地良かった。
「どうかしたか?」
空になった弁当箱を手にしたまま、手塚がぼんやりしているのが気になったらしい。
乾はストローで牛乳を啜りながら、軽く首を傾げていた。
「ここは静かだな、と考えていた」
「ああ、そうだね」
「前から不思議だったんだが、俺達以外に屋上に人が来ないのは、どうしてなんだろうな」
晴れた日は、特に理由がない限りは、ここに来るが、乾以外の人間に殆ど会ったことがない。
「あれ。手塚、知らないのか?」
「何がだ」
「ここ、最初から貸しきり状態だったわけじゃない。時々は人が来ることもあったんだけどね」
乾は笑いながら、鉄の扉を指差した。
「そこから俺と手塚がいるのを見ると、皆帰っていくんだな」
「どうしてだ」
「遠慮というよりは、びびってるんだろうね。手塚、怖いから」
俺だけか、と呟くと、乾は短く声を上げて笑った。
「そのうち、屋上にはいつも手塚と俺がいるってことが広まったらしく、自然と誰も来なくなったんだ」
「そうなのか」
うん、と乾は首を縦に振る。
「ふぅん。そうか。手塚が気づいていないとは思わなかった」
乾は空になった牛乳のパックを手にしたまま、くすくすと笑っていた。
何ヶ月も一緒にいたのに、全然気づかなかったのだから、笑われてもしょうがない。
そうだ。
俺は、大切なことに気づくのが、いつも遅い――。
「昨日は済まなかった。いきなりで」
「謝ることじゃない」
前置きなしの言葉にも、乾の表情は少しも変わらなかった。
乾の中では、取るに足らないことなのか。
それでも、言わずにはいられない。
「錯覚ではないと思う」
隣にいるだけで、胸が苦しい。
そのくせ、顔を見ないでいると、寂しくて仕方なくて。
それが、ただの気のせいであるはずがない。
錯覚などという言葉で、片付けられるのは嫌だ。
いつのまにか、爪が掌に食い込むほど強く拳を握っていた。
「お前に何か望んでいるわけじゃない。ただ、知っていて欲しかった」
勝手な言い分なのは、わかっている。
乾の気持ちはお構いなしで、自分の想いだけを押し付けるのは卑怯だ。
何もいらないといったところで、言葉の重みが変わるわけでもない。
それでも、知って欲しかった。
この胸の苦しさを、どうしたらいいのか、教えて欲しい。
それが出来るのは、乾だけだと思っていた。
少しの沈黙の後、乾が諦めたように息を吐いた。
「俺が先だよ」
「なに?」
乾は手塚の方を向いては、いない。
空の彼方を見るような遠い目をしていた。
「俺の方が、先に好きになった」
「何の、話だ」
問う声が震える。
「俺が先なんだ。手塚を好きになったのは」
どこを見ているのかわからない瞳で、乾はそう言った。
「嘘を」
その先の言葉を遮ったのは、乾の笑顔だった。
「嘘じゃない」
強い向かい風が、手塚と乾の間を吹きぬけていく。
「わかる?手塚」
乾は、眩しそうに目を細めて、とても静かに微笑んだ。
「手塚を見ていると、胸が痛いんだ」
そんな言葉を、笑いながら言うのか――。
「俺は、いつも二番目に欲しいものを手に入れてきた」
手に入らないとわかっているものを、一番に好きになる。
目の前にいる手塚にではなく、自分に言い聞かせるような言葉だった。
「そんなことは聞きたくない」
無意識に乾の胸倉を掴んでいた。
乾は驚きもせずに、真っ直ぐに手塚を見る。
「俺が好きか嫌いか。それだけ答えろ」
手塚を見つめていた黒い瞳が僅かに揺れた。
「好きだよ」
大好きだ。
掠れた声が風に消される間に、今度は手塚が先に乾の言葉を遮った。
強引に重ねた唇は、少しかわいていた。
乾の肩が一瞬ぴくりと反応した気がしたが、それ以上は動かない。
自分から唇を離すと、乾と目が合った。
レンズの向こうの切れ長の目を縁取る睫は、意外と長い。
こんなことも今まで知らなかったのか。
ぼうっと見とれていると、いつのまにか乾の手が肩に置かれていた。
一瞬、瞳に写った色の意味を考えているうちに、今度は乾から唇を重ねてきた。
同時に、力のこもった腕に抱きしめられた。
「言うつもりはなかったのに」
耳の直ぐ近くで聞く乾の声は、いつもより低い。
「そんなことは、俺が許さない」
「我侭だな」
抱きしめたまま、乾はくすりと小さく笑った。
首筋が少しくすぐったい。
「そうだ。知らなかったのか」
「うん。知らなかった」
だから、教えて。
殆ど声になっていない囁きに、手塚は頷いた。
教えて欲しいというなら、いくらだって教えてやる。
十年先のことなんか、わからなくていい。
でも、明日のことなら、手塚にもわかる。
きっと乾にも、わかるはずだ。
明日が、また晴れたなら、ここに来ればいい。
乾に聞けば、きっと明日の天気を教えてくれる。
三度目のキスが終わったら、それを忘れずに聞いておこう。
2007.11.08
憂/歌/団(ゆうかだん・検索避けのため、半角スラッシュ入れてます)の「胸が痛い」が、ずっと頭の中で回ってました。かなり古い曲です。
最初から、実は乾の方が先に手塚を好きになっていて、手塚よりもずっと苦しい思いをしていたという設定で書いてました。
乾は最初から自分の手塚に対する気持ちが、恋だと気づいてた。だから、「胸が痛い」。
手塚は自分の乾に対する気持ちが何なのか、わかってなかった。だから「胸が苦しい」。
それが二人の違い。
途中まで書いて、祭で中断。やっと仕上げられました。中学生は切ない恋がいいなーと思う。