赤の女王仮説

"Now, here, you see, it takes all the running you can do, to keep in the same place."

(ここではだね、同じ場所にとどまるだけで、もう必死で走らなきゃいけないんだよ。)

"If you want to get somewhere else, you must run at least twice as fast as that!"

(そしてどっかよそに行くつもりなら、せめてその倍の速さで走らないとね!)

ルイス・キャロル 「鏡の国のアリス」(翻訳: 山形浩生) より




手塚の公式戦を見るのは、随分久しぶりのような気がしていた。
でも実際には手塚の不在は、そう長い期間ではなかったはずだ。
ただ、その存在感があまりに大きすぎたから、そんな錯覚をしてしまったのだろう。

完璧な試合だった。
ブランクを少しも感じさせないどころか、以前よりも間違いなく強くなっている。
序盤こそ相手にリードを許したが、それは恐らくは、手塚が意図してやったことだ。
本気を出した手塚の自信と誇りに満ちた表情は、まるで揺らぐことがない。

――圧倒的だ。
不二は、手塚の勝利を確信して、誰にも気づかれない程度の笑みを浮かべた。
青学男子テニス部を率いるのは、手塚以外にはあり得ない。
部員の誰もがそう感じただろう。

可能ならば今すぐに手塚と戦ってみたい。
全国大会の真っ最中だというのに、手塚との試合を熱望している自分に気がついて、不二は苦笑した。
だが、そう考えているのは自分だけではないことも、よくわかっている。
こんな試合を間の前で見せ付けられて、血が騒がないはずがない。
不二のいる場所からは、越前の顔は見えなかったが、どんな目でこの試合を見ているかは容易に想像がついた。

そしてもうひとり。
誰よりも熱い視線を向けるはずの人間は、今は不二の隣に立っていた。
見上げた横顔は、怖いくらいに静かだ。
今、何か言っても、乾には届かないかもしれない。
黙って前に向き直る不二の耳に、ぼそりと呟く低い声が聞こえた。

「同じ所にとどまろうと思うなら、全速力で走り続けなきゃいけない」

誰かに聞かせるつもりのない、言葉だったのかもしれない。
だが、それについ反応してしまったのは、どこかで聞いた覚えがあるフレーズだったからだ。

「何?乾」
「不二は、『鏡の国のアリス』を読んだことはあるか?」
乾はゆっくりと不二の方を向いた。
唇の端だけが僅かに持ち上がっている。

「うん。ずっと前にだけど」
「じゃあ、覚えてないか?赤の女王がアリスにそう告げるシーン」
乾は、さっき口にしたのと同じ言葉を繰り返した。
読んだのは小学生のときだから、細かいところまでは覚えていない。
だが、今の言葉は子供心にも印象的だったので、うろ覚えではあったが記憶していた。

「なんとなく憶えているよ」
そうか、と乾は笑い、視線をまた手塚に戻した。
ボールを打ち合う、高く乾いた音が続く。

「それを、進化論になぞらえた「赤の女王仮説」というのがあるんだ」
種・個体・遺伝子が生き残るためには進化し続けなければならないことの比喩として、赤の女王の言葉が用いられているのだと、乾は説明した。

「走っているのは自分ひとりじゃないから、同じ場所にとどまる為には、全速力で走り続けなくちゃいけない。じゃあ、手塚に追いつくためには、俺はどれくらいの速さで走らなきゃいけないんだろう。ましてや、追い抜こうとするなら」

乾の目は、コート上の手塚を、追いかけていた。
でも、もしかすると違うところを、見ているのかもしれない。
乾の視線の先にあるものを想像して、不二は一瞬だけ目を閉じた。

「遠いな。手塚の背中は」
言葉にすると絶望的に聞こえるけれど、乾は決してそんな風には思っていない。
きっとその背中を捉えてやる。
そう考えているに違いない。
それは乾にとって、限界以上の力を出さねば適わないことだとしても。

眩しそうに見つめる乾の目の前で、手塚の試合が終わった。
ひときわ大きな歓声の中、静かに佇む手塚の背中に、乾は拍手を送っていた。
その音が手塚に聞こえたかどうかは、わからない。
でも、きっと乾の視線に、手塚は気づいているだろう。

言葉ではなく、後姿がここまで来いと語っている。
そんな風に、不二には見えていた。



その試合の少し後、乾は誰よりも近い場所で、その背中を見ることになった。

2008.01.28

長いこと寝かせていたものです。元々は「ダブルス企画サイト」にアップするつもりでした。
途中で手が止まってしまって、そのままになってました。

『鏡の国のアリス』は、プロジェクト杉田玄白による翻訳版が無料でDLできます。冒頭で引用させていただいたのも、それです。HTML版、TXT版、PDF版等の種類があり、中にはテニエルの挿絵はいっている物もあります。興味のある方はぜひ。
余談ですが、この「プロジェクト杉田玄白」の在り方には、心から賛同し尊敬します。青空文庫も同様。