本屋で会いましょう

手塚が、その場所を訪れたのは、約ひと月ぶりのことだった。
通りに面した、大きなガラス張りのドアの内側は、人でいっぱいだ。
この界隈では一番大きく新しい書店だけあって、夕方はいつも混んでいる。
駅の目の前という立地条件のせいもあるだろう。

外と比べると店内は暖かい。
マフラーを外しながら、ぐるりと中を見回す。
あの特徴的な髪型と眼鏡の男は、どうやらまだ来ていないようだ。
先に着いていれば、今人気の本や新刊が並べられている平台の周りにいるはずだ。
約束の五時までには、まだ三分ほどある。
手塚は人を避けながら、ゆっくりと別のコーナーへ向かう。

この書店の場合、特に混雑しているのはレジの周辺だ。
12月に入ってからは、年賀状関連の本やカレンダー売り場も、かなり人が多い。
それに比べると、手塚が好む海外ミステリのコーナーは、わりと空いている。
だから、手塚は、乾を待つときはここに決めていた。
勿論、乾も承知していて、入り口付近に手塚がいないときは、ちゃんと探しにきてくれる。

今年の乾の誕生日からこっち、月に一度か二度のペースで、会うようになった。
最初に約束したのがこの店で、それからずっとここが待ち合わせ場所だ。
本屋なら、どちらかが遅れても、時間をもてあます心配がないのがいい。
乾も自分も、大の読書好きなのだ。
まだ読んだことのない本が、ぎっしり並んでいるのを見ると、単純に嬉しくなる。

今月の新刊は、目立つ場所に平積みされていた。
出たら買うつもりだった文庫が、ぱっとに目に入る。
思わず手を伸ばしかけたとき、背後から声がした。

「手塚」
振り向くと、黒いダッフルコートを着た乾が、立っていた。
「お待たせ」
俺も今、来たところだ――。
そう言うつもりだったのに、乾が先に続きを口にした。

「と言いたいところだけど、俺の方が先に来てたんだ」
「え?」
「俺に気づかずに、通り過ぎていくから、追いかけてきた」
乾は、にこりと目を細めて笑った。
だが、手塚のほうはそんな気分じゃない。
今、何か、聞き捨てならないことを言わなかったか。

「お前はどこにいたんだ?」
「いつもと同じだよ。正面のドアを入ってすぐの新刊コーナーのあたり」
片手をコートのポケットに突っ込んで、乾は澄ました顔で答えた。

いや、そんなはずはない。
大きな店舗だから、入り口は一箇所ではない。
だが、手塚は間違いなく正面の一番大きなドアから入り、すぐに周りを見回した。
入り口の近くにいたのなら、自分が気づかないわけがない。
いくら目が悪くても、こんな図体のでかい男が目に入らないのは不自然だ。

人からはポーカーフェイスだと言われる手塚だが、それが乾に通用したためしがない。
きっと納得できないという気持ちが、顔に出てしまったのか、乾は小さく笑ってから説明を始めた。
「手塚は正面のドアから入ってきて、すぐにマフラーを外した。そして店内をぐるっと見てから、まっすぐここに移動してきた。違う?」
乾の言う通りだ。
ということは、やっぱり手塚は乾に気づかなかったのか。

些細なことかもしれないが、どうもすっきりしない。
じっと黙り込んでいると、乾が本の山のひとつを指差した。
「それ、買うんじゃないのか?」
それは、さっき手に取ろうとしていた文庫だった。

「あ。ああ、今、買う」
楽しみだったはずの本に、いまさらのように手を伸ばす。
指摘されるまで忘れていたことが、少し恥ずかしい。
「じゃあ、それの会計を済ませたら、出ようか」
「お前は、買うものはないのか」
「うん。今日はいい」
あっちで待っていると言い残し、乾は黒いコートの裾を翻して、ドアの方に向かって歩いていった。
その姿を見送ったとき、なぜだかわからないが、自然とため息が出た。

「待たせた」
「ん」
支払いを済ませ、乾のところに行くと、すぐに歩き出す。
どこかを言わなくても、行き先はもう決まっている。
初めて乾を呼び出したときに入ったハンバーガーショップだ。
本屋で待ち合わせて、そこに移動し、軽く何か食べながら話をする。
そういう流れが、乾との間で、なんとなく出来上がっていた。

今日も、いつものようにそれぞれが好きなものを注文し、空いた席に向かい合わせに座った。
乾は、空席を見つけるのが早く、いつも手塚を先導してくれる。
乾も自分もそう暇なわけじゃない。
だけど、どうにか時間を作ってでも、乾と会う機会を持ちたかった。

ただ会って、顔を見て、他愛もない話をするだけ。
それだけで十分楽しいと思える自分が、不思議でもあった。
だが、今日は少し事情が違う。
さっき、乾を見つけられなかったことが、どうにも引っかかっていた。
そして、何かに気をとられているのを、ごまかせるような性格でもなかった。

「どうしてお前を見つけられなかったんだろう」
乾は高校に進学してから、また少し身長が伸びた。
きっと今は185センチを越えている。
当たり前だが、これだけ背が高ければ嫌でも目立つ。
そんな相手を見逃すほど、自分がぼんやりしているとは思いたくなかった。

手塚の疑問に、乾は、そんなことかという調子で、さらりと答えた。
「ああ、気配を消していたから」
「それは、隠れていたという意味か?」
「いや。邪魔にならないように端にはいたけど、物陰にいたわけじゃない。ただ、ひたすら気配を殺すようにしてただけ」
お前は、野生の熊やら鹿を狙う猟師か?
しかし、それでは手塚自身が熊だということになるので、口にはしなかった。

「待ち合わせなのに、見つからないようにするのは、おかしくないか。それに、その場で声をかけてくれていたら、済んだ話だ」
「うん。その通りだな。ごめん」
素直に謝罪の言葉を口にはしたが、どう見ても本気で悪いとは思っていない顔だ。
ハンバーガーを片手に、にこにこ笑っている。

「手塚が、俺を探すところを見たかったんだ」
「どうして」
「なんとなく」
きっと、自分ではそう気づかないうちに、乾の希望を叶えてしまったのだ。
そうでなければ、こんな満足そうな微笑を、乾が浮かべるはずがない。

「…次からは、先に着こうが遅れてこようが、俺は絶対お前を探さない」
「いいよ。探すまでもないから」
手塚がにらみつけても、そんなことはどこ吹く風だ。
いつもいつも乾は、そうだ。

「どうしてだ。理由を言え」
「手塚が、入ってきた瞬間に場の空気が変わるから」
「空気?」
「うん。空気がね、全然違う。だから、すぐにわかるよ」

乾とは、中学時代の三年間、同じ場所で同じボールを追いかけていた。
だけど、その間、いったい何を見ていたんだろう。
乾が、こんなに穏やかに、そして嬉しそうに笑うなんて知らなかった。
それとも乾自身も、自分がどんな顔をしているか、気づいていないのかもしれない。

かける言葉が見つからず、手塚が黙ってしまったのを、機嫌を損ねたとでも思ったのか。
もしくは単なる嫌がらせか。
「とりあえず、これは今日のお詫びってことで」
目の前のフライドポテトを1本つまみ上げ、手塚の口元に運ぶ。
自分で食べられるとか、なんのつもりだとか、言うべきことは色々あったはずだった。
なのに、素直に口を開けてしまったのは、あんまり乾が楽しそうだから。

少し塩辛くて、ほくほくしたフライドポテトは、とても美味しかった。
でも、こうやって食べるのは、一本だけで十分だ。

2008.12.16

乾の誕生日祭に書いた「:Re」の続き。
今、直接の続きになる話を書いているんだけど、なかなか終わらないので、昨日思いついた小話を先に仕上げてみた。