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真っ青な空を背景にして、交差点の向こうから、こっちに手を振る黒いTシャツを着た長身が見えた。ひとりで行けると言ったのに、あの馬鹿は、わざわざ迎えに来たらしい。
背後に見える背の高い建物が、恐らく乾の住むマンションだろう。
乾が着ているシャツの胸元には、なにか文字が入っているようだが、この位置からでは読み取れなかった。
「良かった。迷わなかったみたいだね」
「来るのは、初めてじゃないからな」
『初めて』の部分を強調して言ってみたが、乾がそれに気づく様子はない。
手塚の目の前で、のん気そうに笑っている。
テニス部での乾は、こんな笑い方をしていただろうか。
手塚の記憶に中にいる乾とは、少し印象が違っている。
印象といえば、今の服装もそうだ。
私服も青学以外の制服も、見慣れないことには変わりないが、今の姿の方が多少は違和感が薄い。
知らなくて当たり前なので、むしろ新鮮さの方が大きいかもしれない。
不思議な気分で、乾の後をついてマンションの中に入る。
生まれたときから、一軒家に住んでいるせいか、家に出入りするためにエレベーターに乗るというのが、どうにも慣れない。
いつか自立するときが来ても、マンション住まいは避けてしまいそうだ。
逆に、乾にはマンション暮らしが良く似合っているような気がする。
手塚の自宅のような家で生活するところなど、まったく想像ができない。
乾の部屋には2、3回しか来たことはないが、印象はかなり強かった。
事前に本人から「ちらかっている」と言われていたので、それなりの覚悟はしていた。
だが、実際に目にしたら予想以上だった。
不潔な感じではないが、とにか部屋中に、ごちゃごちゃと物が詰まっている。
それだけなら珍しくはないが、自室の壁に文字を書き込む人間はそう多くはないだろう。
できるなら画鋲の跡すら残したくない手塚には、とてもじゃないが考えられない行為だ。
そのときのことは、今でも鮮明に覚えている。
久々に入った乾の部屋は、記憶よりは多少片付いているように見えた。
ドアを開いたままにして、乾が話しかけてきた。
「暖かいものと冷たいのと、どっちがいい?」
「何が」
「ああ、ごめん。飲み物の話だ」
普段は鋭く見える切れ長のが細められると、とたんに人懐こい顔になる。
乾のこういう顔は、昔から嫌いじゃない。
「じゃあ、冷たいものを」
「麦茶とアイスコーヒーがあるけど」
「麦茶」
「わかった。麦茶ね」
すぐに持ってくると言い残し、乾は部屋を出て行った。
一人残されたのはいいが、どこに座っていいのかわからず、本棚の前に移動する。
立ったまま本の背を、手塚は、ぼんやりと眺めた。
相変わらず、脈絡のない並び方だ。
出版社ごとでもなく、ジャンルごとでもなく、背の高さ順でもない。
手塚の目には、めちゃくちゃに見えても、きっと乾には意味のある並びのなのだろう。
それは部屋の中だけの話じゃない。
乾の行動は、手塚には理解できないルールや価値観で決められているように見えていた。
勿論、部活に打ち込んでいるものなら、誰でも自分なりの信念や理想を持っているだろうと思う。
ただ、乾の場合は、そういうものとは少し違う気がしていた。
だから、乾が青学の高等部には進まないと知ったとき、裏切られたような気持ちになった反面、心のどこかでは多分、納得していたのだ。
乾の本棚に並ぶ一冊に手を伸ばそうとしたとき、乾が戻ってきた。
「お待たせ。冷たいうちにどうぞ」
乾は、麦茶の入ったポットごと、机の上において軽く笑った。
背の高いグラスに、なみなみと注いであるのが、乾らしい。
「お替りは自分で好きなだけ注いで飲んでくれ」
グラスを大きな手に持ち、こちらに差し出した。
「ありがとう。ところで、俺はどこに座ったらいいんだ」
「ああ、ごめん。嫌じゃなかったら、ベッドの上に座ってくれ」
別に嫌ではないので、乾の言葉に従い、ベッドの上に腰を下ろす。
自分が使っているベッドと同じような大きさだった。
グラスを右手に持った乾が、手塚を見て、ふっと微笑んだ。
「今日、本当に来てくれるとは思わなかったよ」
「どうしてだ?」
「いや、なんとなく」
「断った方が良かったのか」
「まさか。来てくれて嬉しいよ」
来いと誘ったのは乾のくせに、わけのわからないこと言う。
本当は来て欲しくなかったのかと勘ぐりたくなるが、目の前で笑う顔に嘘はなさそうだ。
どうも、乾の考えていることは良くわからない。
でもそのわけのわからなさに、自分は惹かれているのだと思う。
そうだ。
自分は間違いなく、乾に惹かれている──。
その自覚があるから、今ここにいるのだ。
皮肉なものだ、と思う。
乾が別の高校に進学し、手塚の前からいなくならなければ、気づくことはなかったかもしれない。
いつもそこに在ったものが消えてしまって、ようやくその存在の重さを知らされた。
会わなくなって数ヶ月。
ずっと乾のことを考え続け、答えを出すためには、本人に会わなければならないと感じた。
だから、自分から会いに行くことを決めた。
それが乾の誕生日だった。
あの日、乾に会わなければ、今こうして話をすることはなかっただろう。
誕生日から今まで、約二ヶ月の間に、乾とは三度ほど会った。
四度目には、こうやって乾の部屋に招かれた。
乾が、どういうつもりで自分を呼んだのかは、わからない。
多分、深い意味などないのだろう。
でも、手塚はそうじゃない。
乾の家まで来ることには、はっきりとした理由があった。
乾と自分の間で、何が起きているのか。
今、自分に見えていることと、見えていないこと。
わかっていることとと、わかっていないこと。
それを見極めたかった。
いつの間にか、黙り込んでしまったことに気づいて、顔を上げると乾と視線が合った。
口元には僅かな笑みが浮かんでいるが、目は笑っていない。
なにか、眩しいものを見ているときのようだった。
手の中のグラスは、汗をかいて濡れている。
手塚が沈黙していた間も、ずっとあんな目をしていたのだろうか。
それに気づかないふりをしたくて、無理やり口を開いた。
「今でも、テニスは続けているんだろう?」
「うん。まあ一応、鈍らない程度には」
乾が今所属しているテニス部のレベルはあまり高くはないことは、前にも聞かされている。
もしかしたら、やめてしまうのではないかと心配していたが、それは考えすぎだったようだ。
「試合には個人戦で出られればと思ってはいるけど、ちょっと難しいだろうな」
「そうなのか?」
「残念だけど、青学とはレベルが違う。自分ひとりで頑張るのも限界がある。それでも、やめるつもりはないけどね」
「それならいい。俺は、お前のテニスが好きだったから。できれば、近くで見ていたかったが」
「手塚に、そう言ってもらえただけで十分だ」
それは違うだろう。
思わず、声に出してしまいそうだった。
手塚の知る乾は、そんなことで満足してしまう奴じゃなかった。
不二や越前のように目立つ存在ではなかったかもしれないが、乾もまた特別な力を持っていることを手塚は知っている。
一度レギュラーから落ちた乾が、復活をかけたランキング戦。
あの試合を思い出すと、今でも血が騒ぐ。
あんな戦い方ができる乾が、負けを認めるような発言をするのがやりきれなかった。
手塚が黙り込んでしまったことで、かえって何を言いたいのかが、察しのいい乾にはわかってしまったらしい。
乾は一度寂しそうに笑い、静かに口を開いた。
「テニスは勿論、今でも好きだ。ずっと続けていくだろうとも思っている。でも俺のテニスは、これが限界だよ」
「限界?」
「ああ。俺のテニスは、どれだけ頑張ろうと、結局は部活レベルなんだ」
「それの何が悪いんだ」
「悪くないさ。だけど、少なくとも俺は、その先を考えたことはない。俺のテニスには、そこから未来に繋がる道はないんだ」
気づけば、手の中のグラスを重たく感じていた。
なのに、ろくに中身も残っていないそれを、手から離すことができなかった。
これが無くなれば、視線をどこにも持っていけなくなる。
それが怖かった。
「俺は、将来は物理学方面の研究職につきたいと考えている。それは夢じゃなくて、目標だ」
落ち着いた乾の声が続く。
「目指す方向にに進むための、一番確実な道を選んだ。テニスは二の次でいい。つまり、そういうことなんだ」
手を伸ばせば、すぐ届くところにいるはずのに、どこか遠くから聞こえてくるようだ。
こんな話し方をする乾を、今まで知らなかった。
「それが理由か」
「ん?」
「青学に進まなかった理由だ」
「そうだよ」
手塚の問いに、乾は小さく頷いた。
「でも、理由はそれだけじゃない」
乾は一度言葉を切り、自分の眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
本当に、眼鏡がずれたわけではないことは、手塚にもわかる。
「俺は、逃げたんだよ」
低いけれど、しっかりとした声で、乾は言った。
「何から」
「わかっているくせに、俺に言わせるのか」
「そうだ」
多分、乾だって、言う機会を待っていたはずだ。
手塚には、そうとしか思えなかった。
乾は、じっと手塚の目を見つめていた。
負けずに、手塚も乾の真っ黒な瞳を見つめ返す。
今、視線を外したら、多分求める答えは手に入らない。
根負けしたように、乾は小さく息を吐いた。
「手塚だよ」
「俺が、どうした?」
こんな言葉が、するりと口から出てくることに、自分で驚く。
「好きなんだ。ずっと前から」
しんと静かな部屋に、乾の声が響き、ゆっくりと溶けていく。
それは、そのまま手塚の中にも、染み込んでいくようだった。
「傍にいたら、もっと好きになってしまう。それが怖くて逃げたんだ」
勝手なことを言うな。
そう言いそうになった。
でも自分にはそんなことを言う資格はないのかもしれない。
きっと、手塚が乾への気持ちに気づくよりも先に、乾は自分を好きでいてくれたのだ。
だが、手塚にそれを告げる前に、ひとりで答えを出し、逃げ出してしまうなんて勝手すぎる。
「手塚から連絡がくるなんて、俺の予想外の出来事だった」
「無視しようとは思わなかったのか」
「正直、考えなかったわけじゃない。でも、無理だった。やっぱり、好きだから」
好きだから──。
その言葉を言うとき、乾は困ったような顔で笑った。
多分、本当に困っているのだ。
だが、もっと困らせることを、今すぐに言ってやる。
「どこにいても無駄だ」
これは、宣言だ。
俺を忘れるなんて、認めないし、許さない。
何の根拠もなく、そうできる自信もある。
手塚は、きっぱりと言い放った。
「俺は、絶対に捕まえてやる」
乾は、人のよさそうな笑顔を引っ込め、今は驚いたように目を瞠っていた。
数秒間、そのまま動きを止めていたが、やがてゆっくりと笑顔に変わった。
「手塚が、俺にこだわる理由を聞いていいか」
「わかっているんだろう?」
「でも、聞きたい」
さっきの仕返しみたいな質問だ。
だが、それでも一向にかまわない。
嘘をつく理由も、ごまかす必要も、今の手塚にはない。
本心を、そのまま乾に伝えれば、それでいい。
「お前が好きだからだ」
なんの躊躇いもなく、言葉が出た。
「そうか」
乾は小さく呟いてから、ふっと笑った。
その瞬間に、乾と自分をとりまく空気が、少し変わったような気がした。
「じゃあ、頑張ってみようかな」
にやりと唇を斜めにして、乾が呟いた。
「何を」
「恋愛と学業の両立ってやつ」
「お前は、結構恥ずかしい奴だったんだな」
「ん?そう?」
ついさっき見た困った顔は、もうすっかり消えている。
もう、いつもの乾のペースだ。
「もっと恥ずかしいことを言おうか」
「止めろといっても無駄なんだろう?」
「まあね」
乾は、小さく笑ってから、軽く腰を浮かせた。
「隣にいってもいいか」
「ああ」
返事をするのと同時に、ずっと手に持ったままだったグラスを、乾に返した。
中身はとうに空になっている。
グラスを机の上に置いてから、乾は静かに手塚の隣に座った。
「触っていい?」
「ああ」
手塚が頷くのを見届けて、乾はゆっくりと両手を手塚の背に回した。
最初は、ごく弱く、それから時間をかけて、少しずつ力が込められていく。
幼かった頃を抜かせば、こんな風に他人から抱きしめられるのは、初めてだ。
なのに、不思議なくらい落ち着いている。
自分からも、抱きかえすと、もっと安心できた。
乾と自分の間に、何が起こっているのか。
何が見えて、何が見えていないのか。
求めていた答えが、やっと見つかった。
見つけてしまえば、今までわからなかったのが不思議に思える。
でも、ここまで遠回りしたことも、きっと無駄じゃないのだ。
「やっぱり別な高校を選んで、正解だったな」
身体を少し離してから、乾が半笑いで、呟いた。
「どうしてだ」
「……訊くかな、それを」
「言えないようなことか」
「そうだよ」
今度は了承を取らずに、ぎゅっと抱きしめられたが、気持ちがいいからそのままにしておいた。
乾の肩越しに、壁に書き込まれた文字が目に入った。
思いついたことは、その場でメモしないと気が済まない乾が、書き殴ったものだ。
この位置からだと、何が書かれているかは、殆ど読み取れない。
だが、乱雑な文字の中でも、はっきりと浮かび上がって見える漢字がふたつあった。
手塚
自分の名前が、そこにある。
こみ上げてきた笑いを抑えるために、乾の肩に顔を押し付けてみた。
すぐに乾の大きな手が、頭の後ろを支えてくれた。
伝わってくる体温と、掌の感触が心地良い。
乾を好きになることは、最初から決まっていたのかもしれない。
そう思えるくらい、居心地が良かった。
2009.12.03
終わらないんじゃないかと思ったけど、どうにかまとめました。
このあと、きっと乾はさらにヘタレ攻め道を歩み、手塚は男前受けに磨きをかけるのだと思います。