理屈じゃない
自分が、乾に友情以上の好意を持っていることに気づいたのは、少し前のことだった。だが、改めて考えてみると、実際には随分前から惹かれていたような気がする。
お互いに同じような気持ちを持っているのを、確認できたのは、つい最近だ。
だからといって、自分と乾との間で何かが大きく変わるとは、まったく思わなかった。
自分も乾も、大切なものや好きなものは沢山ある。
それはテニスだったり、家族だったり、学業だったりで、どれも順番付けをすることが不可能なほど大事なものだ。
特別な存在であることは疑いようもないが、乾に対する気持ちが恋愛感情かどうかを、実のところ今でもよくわかっていない。
だから、自分は変わらないと思っていた。
無防備に、短絡的に、そう考えていた。
でも、好きという気持ちは、そんな簡単に割り切れるものじゃないらしい。
最近は、乾に対して無自覚の行動を取ってしまうことが多くなった。
自分では真剣にボールを追いかけているつもりでも、無意識にあの長身を探しているのに驚いたのは一度や二度じゃない。
コートや部室の中に響く、遠慮のない大声の会話の中で、ぽつりと呟いた低音だけを自然と聞き分けられたりもする。
テニスをしているときは、他に注意がいくなんてことは、以前は殆どなかったのに。
やっぱり、自分は変わったのだと思う。
好きという感情は、想像以上の強さを持っている。
どれだけ自分は冷静なつもりでいても、制御するのは難しい。
乾が時々言うあの言葉。
まさに、あれがぴったりだ。
――理屈じゃない。
思ったとたん、そのままの言葉を無意識に声に出していた。。
斜め向かいに座っていた乾は、30秒ほど黙って手塚の顔を見つめていた。
何も言わなくても、乾が手塚を訝しんでいるのは間違いない。
やがて不可解そうな顔のまま、ゆっくりと口を開いた。
「なんのことだ?」
「別になんでもない。ただの独り言だ」
開き直って答えたものの、乾の立場になってみたらさぞ変な気分だろう。
二人きりのミーティング中に、いきなり相手がわけのわからないことを言い出したのだから。
他の部員が帰ったあとで、本当に良かったと手塚は思った。
「今日の手塚は朝から変だな」
「どこがだ」
確かに今の発言は、あまりに唐突だった。
だが、乾に『変』と言われるのは、納得がいかない。
普段の乾の方がよほどおかしな発言をしているのに。
「朝から、ずっと俺の顔を見てる」
「そんなに見ていたか?」
「ああ。見てたよ」
乾の表情や口調には、からかうような気配はなかった。
単純に、不思議がっているような感じだ。
「何か俺に言いたいことがあるのかな」
「無意識の行動だ。特別な理由はない」
「そういうもの?」
「多分な」
納得したのか、しないのか。
乾は、右手に持ったペンでノートをトントンと何度か突いてから、そうかと頷いた。
あまり日に焼けていない白くて長い指と、黒いシャープペンシルの対比が鮮やかだ。
こうやって、乾と向かい合って座ったときに、いつも自然と目に入るからなのか。
筋張った手の甲の形を、手塚はすっかり覚えてしまった。
きっと今なら、手の写真だけ見せられても、乾だけは判別できる自信がある。
いつのまにか勝手に自分の左手が、乾の右手に触れていた。
乾は手塚の顔を見て、それから重なった左手と右手に目を落とす。
「これ、なに?」
「俺だってわからない。聞くな」
「ああ、そう」
ラケットを握り、高速のサーブを打つ手。
器用にくるくるとペンを回す手。
そして、手塚の肩を抱くときに使う手でもある。
重なった場所が少しずつ温まっていく。
「俺は、お前のどこが好きなんだろう」
重なり合った手を見て呟いたら、乾がふっと軽く笑った。
「それは、俺もぜひ教えて欲しいよ」
顔を上げると、僅かに目を細めて微笑む乾がいた。
――ああ、やっぱり理屈じゃないんだ。
考えるふりをして、しばらく黙って乾を見つめていた。
「で?」
微笑んだまま、乾が問いかけてきた。
「なんだ」
「答えをまだ聞いてない」
「わからない」
「またか」
「ああ」
そういう答えを、多分予想していたのだろう。
怒るでもなく、呆れるでもなく、乾はただ笑っている。
「わかったら、言う」
「楽しみに待ってるよ」
重なっていた手を引いても、指先にはまだ乾の温度が残っていた。
2008.09.07
答えは多分出ているんだと思う。口にするのが照れくさいだけで。