4月最初の日
春の河川敷に吹く風は、少し冷たい。さっきまでは、もう少し暖かく感じたのだが、少し日が翳ったからかもしれない。
だが、身体を動かすにはちょうどいいくらいの冷たさだ。
テニスコートの向かい側にいる手塚も、心地良さそうに風上に顔を向けていた。
3月はあわただしく過ぎて、春休みももうすぐ終わる。
新学期が始まれば、とうとう三年生だ。
これからは、新三年生がテニス部の主力となって部を引っ張っていく。
今年は、全国優勝も狙えるとという手ごたえを感じていた。
そう思える一番の理由は、手塚の存在だ。
心技体とよく言うが、今の手塚はそのどれもが中学生のレベルを超えている。
その手塚が部長としてメンバーをまとめてくれるのは、心強かった。
春休みは短く、基本的に部活は休みだ。
だが、身体がなまらないように、部員は自主的にトレーニングをするよう指導されている。
言われなくても、みんな勝手にやるだろう。
怠けていては、レギュラーの座はつかめない。
何日かは、ひとりで自主練習をしていたが、どうにも物足りなくなった。
誰かと一緒にやる方が効率が良さそうだと思い、軽い気持ちで手塚に声をかけてみた。
70パーセントの確立で断られると予想していたのに、あっさりと手塚が乗ってきたのは驚きだった。
練習のパートナーとしては、これ以上は望めないほどの相手だ。
ただの打ち合いだけでも、つい気合が入ってしまった。
試合形式でやってみたいところだったが、あまりむきになってもいけないので自重した。
楽しいなんて言ったら、手塚に怒られるかもしれない。
でも、本当に楽しかった。
高架下の空きスペースを使ったテニスコートは、学生には人気のある場所だが、今日は手塚と二人きりだ。
時々聞こえてくるのは走る電車の音と、遠くでサッカーをやっている子供の声。
光が反射する川面の上を、水鳥がさあっと掠めていく。
そんな場所で、手塚とひとつのボールを打ち合う。
ただそれだけのことが、楽しくて仕方なかった。
時間を忘れそうになるのを、腕時計のアラームがなんとか引き止めてくれた。
「手塚、休憩しようか」
声をかけると、手塚はサーブを打つのをやめて、ボールをポケットにしまいこんだ。
「そうだな。少し休もう」
手塚はコートの端に置いてあったタオルとドリンクボトルを手に、橋脚の方に移動した。
乾も同じようにタオルとボトルを持ち、手塚の後をついていった。
このコンクリートの橋脚は、壁打ちをするのに丁度よく、乾もときどき訪れる。
風を避けるようにして、壁に背を向け、並んで腰を下ろした。
身体を冷やさないよう汗をぬぐってから、スポーツドリンクを口にした。
手塚もタオルで汗を拭いているが、乾よりもずっと丁寧な仕草だった。
細長い首を拭く手塚の左手を、いつのまにか見入ってしまっていたことに気づき、急いで目を逸らした。
いつもはあまり口数の多くない手塚が、珍しく自分から口を開いた。
「いい天気だな」
部活の最中とは違う、やわらかく穏やかな声だった。
「ああ。暖かくて気持ちがいいよ」
「ここにいたら眠くなりそうだ」
「駄目だよ。川風は冷たいから風邪を引くぞ」
「わかっている。本当に寝たりしない」
手塚は乾の顔を見て、楽しげに笑った。
なぜか、さっき見たばかりの首の白さを思い出した。
まだ日に焼けていない肌は、驚くくらい真っ白だった。
部室で何度も着替えを見ているはずなのに、なんだか後ろめたいくらいに、どきどきした。
「もうすぐ新学期だな」
川面を見つめながら、手塚が呟いた。
声の調子が、少し変わっていることに、乾はすぐに気がついた。
「ああ、とうとう今年が最後だ」
手塚は黙って頷いた。
なにが最後なのかは、お互い言わなくても通じている。
「今年は絶対優勝するぞ」
静かだが、力強い口調で手塚は言った。
絶対という言葉にこめられた思いの強さが、嫌でも伝わってくる。
「ああ」
自分たちの代では必ず全国に行く。
入部したときから、手塚はそう言い続けてきた。
その目標のために、部長を引き継いだ手塚が、どれほど頑張ってきたかを乾は良く知っている。
天賦の才に胡坐をかくことなく、ひたむきに努力を重ねる手塚の姿勢は、尊敬を超えて感動すらおぼえた。
乾にとって、手塚という存在は、理想であり目標だった。
少しでも手塚に近づきたいと、出会った瞬間から思い続けてきた。
でも、いつからか、手塚を別な視線でも見ていたことに気がついた。
ただの錯覚だとか、憧れるあまりにちょっと頭に血が上りすぎているだけだとか、もっともらしい言い訳をしてみても、自分をだませるはずがない。
かすかな痛みを伴いながら、胸の奥に積もっていく想いは、いつあふれ出してもおかしくない量になっていた。
手塚は、いつも近くて遠いところにいる。
手を伸ばせば、すぐに触れられる場所にいるはずなのに、見えない何かに遮られらているような気がしていた。
でも、今日は手塚との距離が、いつもより近く感じられる。
青学のテニスコートではなく、囲みのない広々とした場所に、ふたりでいるからだろうか。
なんとなく、手塚の雰囲気もいつもと少し違う。
いつもは口数が少ないのに、今日は自分の方から話しかけてくる。
同学年ではあっても、テニス部以外でのつながりはないから、話題の全部がテニスに関することだ。
中身はなんであれ、手塚の落ち着いた声を聞けるのは、気分がいい。
ましてや、今日は乾ひとりに向けられているのだ。
考えてみれば、今までこんなに長く、手塚とふたりだけでテニスをしたことはなかった。
手塚と一対一で打ち合うだけでも貴重な経験なのに、一日独り占めするなんて、贅沢な話だ。
レギュラーの座を狙う立場で考えれば、強力すぎるライバルではある。
でもそれ以上に、3年間をともに過ごせることを幸運だと思う。
同じ春に青学に入学し、同じ最後の夏を過ごす。
いつかきっと、それを誇らしく思い返すときが来るのだろう。
「乾」
「え?」
名前を呼ばれて、反射的に手塚の顔を見た。
「俺の声、聞こえていたか?」
「ごめん。ぼんやりしてて、ちゃんと聞いてなかった」
「なんだ。俺に、寝ると風邪を引くなんて言ったくせに、自分が眠くなっていたのか」
手塚は、そう言って小さく笑った。
春に良く似合う、控えめだけど明るい表情だった。
手塚が、こんな顔で笑うこともあるなんて、今日まで知らなかった。
「違うよ。眠かったわけじゃない」
「じゃあ、何に気を取られてたんだ」
「手塚だよ」
手塚は、え?という表情で、乾を見た。
「手塚のことを考えていた」
今日だけじゃない。
毎日、手塚のことを見ている。
いつも、手塚のことを考えている。
もう、ずっと長いこと、そうしてきた。
「手塚が好きだ」
手塚は一度、大きく目を見開いた。
だが、すぐに訝しむように目を細めた。
「ごめん。嘘」
「どういう意味だ」
「今日は、4月1日だ」
手塚は3秒ほど黙ってから、納得したような顔で頷いた。
「エイプリルフールか」
「そう。怒ったか?」
「別に」
少しうつむいた手塚の表情は、確かにほとんど変わっていなかった。
変わらないことが、乾の胸をざわつかせる。
「乾」
名前を呼ぶのと同時に、手塚が顔を上げた。
「ん?」
「俺も、お前が好きだ」
「それ、嘘?」
「そうだ。4月1日だからな」
「だろうね。エイプリルフールだもんな」
笑ってはみたけれど、ちゃんとできたかどうかは自分ではわからない。
手塚の方は、にこりともしなかった。
「エイプリルフールか」
うつむいたまま、手塚が低い声で呟いた。
乾に話しかけたのではなく、自分に言っているように聞こえた。
河川敷に吹き付ける風が、手塚の前髪を揺らす。
手塚は乾の方を見ないまま、口を開いた。
「俺は」
――その先が聞こえない。
「え?なに?」
突然鳴り出した、踏み切りのけたたましい音が、手塚の声を消してしまった。
「聞こえないよ」
上半身を手塚の方に傾けた瞬間、いきなり胸倉をつかまれた。
殴られる──。
頭に浮かんだのは、それだった。
でも、実際はそうじゃなかった。
手塚の唇が、乾の唇を塞いでいた。
目を閉じる暇もなかった。
でも、目には何も映っていなかった気がする。
唇が触れ合っていたのは、ほんの数秒。
その間、何を見ていたのか、何を聞いていたのかまったく覚えていない。
気づいたときは、既に離れていた手塚の唇の隙間を、見つめていた。
「……これも、エイプリルフールの嘘か?」
「そうだ」
手塚は乾の目を見て、静かな声でそう言った。
まだ、触れたばかりの唇の感触が残っているのに。
胸倉をつかまれたときの、強い力も忘れてないのに。
これも全部嘘なのか。
手塚は怒ったような顔で、乾の目を見つめ続けている。
多分、本当に怒っているわけじゃない。
そんな顔しかできないんだろう。
殴られたわけじゃないのに、胸が痛い。
でも、嫌な痛みではなかった。
この痛みがどこから来るのか、乾は知っている。
「嘘でもいい」
嘘でも本当でも、今、目の前にいる人を離したくない。
手塚の肩に手をかけて、そっと引き寄せてみても、今度は何も言われなかった。
2013.04.17(2013.08.29一部修正)
二年生から三年生に変わる時期。
殴られるかと思ったら、ちゅーされたというシチュエーションが、めちゃめちゃ好きなので何度も書いてしまうのだった。