三度目の嘘
目覚まし時計の鳴る前に、雨の音で目が覚めた。瞼を開くのと同時に思い出されたのは、静かに微笑む乾の顔だった。
その笑顔は、少し気だるい朝の空気の中に、ぼんやりと溶けるように消えていく。
今日が雨降りだと気づいたのは、消えてしまった後のことだった。
早朝に降り出した雨は、午後になると更に強くなり、まるで止む気配はない。
今月に入って、部活が雨で中止になったのは二度目だ。
部長としては、あまり歓迎すべき事態ではない。
だが、個人的には必ずしも嫌ではないのが、逆に困ったことだとも思う。
体育館の一部を借りての、簡単な柔軟運動とミーティングを済ませたら今日の部活は終了だ。
不足分は、本来部活が休みの日と振り返ることで、埋め合わせる予定になっている。
着替えを済ませても、普段の帰宅時間までは一時間以上ある。
大半の部員は早々に部室を出ていき、残っている者はごく少ない。
その中には、乾も含まれている。
視線を動かすと、少し離れたところに立っている乾と目が合った。
乾は夏服のボタンを嵌めながら、唇の端にほんの僅かな笑みを乗せる。
多分、手塚の視線の意味に気づいたからだろう。
そのつもりがあるのを、否定するつもりはない。
突然の雨に降られ、乾と二人で部室に閉じ込められたのが一月ほど前のこと。
ただの雨宿りだったとは言えないような、印象的な時間を過ごした。
あれ以来、手塚は、なんとなく乾を意識している。
それは乾の方も同じらしく、部活中に何度も目が合うようになった。
だが、それ以上のことは何もなく、表面上は以前と変わらない毎日が過ぎていた。
乾から声を掛けられたのは、雨で部活が中止になった一度目の日だった。
急なことで、体育館を借りることが出来ず、部室でのミーティングだけで終わってしまった。
「雨の日用のトレーニングメニューを見直した方がいいんじゃないか」
乾がそう切り出したのをきっかけに、そのまま話し合いが始まった。
その時点で他の部員は殆ど帰っていたので、結局はまた二人きりだ。
いつのまにか、話題は部活から離れ、とりとめのない方向に進む。
だが、乾の話は興味深く、自然と惹きこまれていた。
時間にしたら小一時間というところだったろうか。
短いような、長いような、不思議な時間だった。
少し日にちが経ってから、自分は楽しかったのだとわかった。
今日も誘われるのではないかと思っていた。
さっきの微笑みは、そういう意味だと受け取った。
自分は決して察しのいい方ではないけれど、今は確信がある。
予想通りに、乾はゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。
「手塚、今日は時間あるかな」
「ある」
乾は最初から、手塚がそう答えることを予測していたようだ。
ほんのわずかだか口角を上げている。
「じゃあ、少し、いいか?」
「ああ」
乾は、何をとは言わなかった。
それでも断らなかったのは、自分の方も、誘われた理由がなんでも良かったからだ。
ただ、乾と二人で話す時間が持てれば、それで良かった。
ミーティング用の机に向かい合って座り、ノートを開く。
左手にペンを握り、打ち合わせのポーズを取る。
乾も同様に、愛用のノートを開いていた。
それも、他の部員がいなくなるまでのことだった。
最初こそは、部の話をしていたが、やはりいつの間にか話題はどんどん多方面に広がっていく。
話しているのは、八割方が乾だった。
それでもいつもの自分と比べれば、よく喋っていたと思う。
結局、いつもの部活よりもやや遅い時間まで話し込んで、ようやく会話が止まった。
「すっかり遅くなっちゃったな」
申し訳なさそうに乾が言う。
「別に構わない。用があったわけでもないし」
着替えは済んでいるし、ノートを片付ければ、帰り支度はすぐに終わる。
乾が先に立ち、ドアに向かって歩いていく。
ノブに手をかけた乾が不意に声を上げた。
「あ。窓を閉めてない」
「え?」
乾が急に立ち止まって、勢い良くこちらを振り向くのが目に入った。
だが、あまりに突然で、歩き出した足を止めることができない。
次の瞬間には、ほぼ正面からぶつかっていた。
「ごめん!」
乾の焦った声がする。
驚きはしたものの、実際にはそれほどの衝撃はなかった。
乾が上手に受け止めてくれたらしい。
気づけば、両方の二の腕を乾の大きな手で掴まれていた。
「いや、大丈夫だ」
顔を上げると、自然と視線がぶつかる。
手塚を見つめる乾の目は、黒く深い色をしていた。
本当は、ここで何か言うべきだったのかもしれない。
驚いただけだとか、なんでもないとか、良く前を見ろとか、なんでもいいから。
だが、初めて間近で見る乾の目に、自分は見とれていたのかもしれない。
ただ黙って突っ立っているだけだった。
乾の顔が近づいてきたのは、視覚では捉えていた。
だけど、その行動の意味を理解はしていなかった。
自分の唇を、柔らかいものが塞ぐ。
それは、他人の唇だった。
目は開けていたのに、その数秒間、何を見ていたかをまるで覚えていない。
ただ、ゆっくりと遠ざかる乾の口元と、半分伏せられた切れ長の瞼の形が、印象的だった。
左右の腕は、いつの間にか開放されていた。
「なんだ?これは」
驚くでもなく、ただ単純な疑問が口をつく。
「キスじゃないかな」
答える声は、いつもと同じだ。
「そうなのか」
「うん。多分」
わかりきったことを真面目な顔で答える乾が可笑しかった。
多分、自分も同じような顔をしていたのだろう。
乾と手塚は、ほぼ同時に吹き出していた。
自分にとっての初めてのキスの相手が乾だと思うと、笑いが止まらない。
でも、どこかで、それが当たり前だと納得している。
偶然の事故を装った周到な仕掛けの上に、手塚は自ら進んで乗ったのだ。
少なくとも、今のキスは嫌じゃなかった。
もう一度と言ったら、乾はそれに応えるのだろうか。
仕掛けた本人は、まだ肩を揺らして笑い続けている。
次の雨の日に、それを言ってみたら、答えを知ることができるかもしれない。
2008.08.16
中学生乾塚。出来上がる寸前ブームです。
最初、「三度目の正直」というタイトルでした。でも、二人とも嘘つきなので「三度目の嘘」。