スマイルカット
「手塚、オレンジ食べない?」「頂く」
食後のコーヒーを飲み干した瞬間に、乾に声をかけられた。
手塚が食べ終わるタイミングを見計らっていたのだろう。
乾の家で、朝食をご馳走になるのは、これで三度目だ。
それは、そのまま泊めてもらった回数でもある。
もうひとつ、別の経験も、これで三度目ということになる。
慣れたとまでは言えないが、こうやって向かい合って食事をするくらいは出来る。
初めてのときは、まともに乾の顔を見ることすら出来なかった。
身体の負担を心配していたようだが、実際は恥ずかしさの方が上回った。
朝が来ても、ベッドから離れられなかったのは、そういう理由だった。
今でも気恥ずかしさは残っているが、顔を見られない程ではない。
両親が留守がちだというのは、前から聞いていたが、泊めてもらうようになったのは比較的最近のことだ。
テニス部では、変なオリジナルドリンクばかり作るから、料理は下手なのだと思っていた。
だが、実際に食べると、意外とそうでもない。
今日の朝食は全部乾の手作りだったが、簡単なメニューとは言え、全部美味しかった。
しかも締めくくりに、デザートまでついているとは、驚きだった。
「ふたつあればいいかな」
そう言って、乾が冷蔵庫から出したのは、大玉のオレンジだった。
「結構、大きいな」
「ビタミン補給にもってこいだろ」
鮮やかなオレンジ色を見ているだけで、口の中が酸っぱくなる。
「柑橘類は好きか?」
「好きだ」
「何が一番好き?」
「何でも好きだが、一番よく食べるのは冬みかんだな」
「手塚らしいな」
何気ない会話だが、乾のことだ。
これも、データ収集のひとつなのかもしれない。
でも、こんなデータを取って何の役に立つのだろうかとも思う。
乾は笑いながらテーブルの上に、小さなまな板を置いた。
どうやらここで切るつもりらしい。
「手塚はスマイルカットって、知ってるか?」
「いや、知らないな」
「今、実演するから、見ててくれ」
にっこり笑う乾の手には小さな果物ナイフ
いや、きっとナイフは標準的なサイズなのだ。
乾の手が大きいから、そう見えるだけだ。
乾は、慣れた手つきで、横向きにしたオレンジを真っ二つに切る。
今度はその半分を手に取り、スイカのようにくし型に切り分けた。
さらに軽く実に切り込みを入れる。
それを皿の上に乗せ、手塚の前に差し出した。
「はい。これがスマイルカット」
くし型のオレンジを、ひとつを手に取り、皮を外側に反らせる。
切り込みにそって綺麗に実が分かれた。
「こうやると食べやすいよ」
そのままぱくっと噛り付き、食べ方まで実践して見せてくれた。
なるほど。
笑った口の形に見えるから、スマイルカットなのか。
乾の真似をして、皮を反らせると、怪獣の歯のようにも見えた。
そう言ったら、声を上げて笑った。
二人でいるときの方が、この男はよく笑う気がする。
もうひとつ残っていたオレンジも、乾は、あっという間に笑顔の形に切っていく。
大玉のオレンジをすっぽり包み込む広い掌。
器用に皮を剥く指先。
この手が、自分の肌の上を滑り、肩を抱いて、内側まで入り込んだのか。
明るい日差しの中で見る乾の手と、夕べの記憶のそれがイコールで結べない。
滑らかに動く指を、不思議な気持ちで、見つめていた。
「どうした?食べないのか?」
言われて、はっと我に返る。
乾の手元に集中していて、食べるのを忘れていた。
「食べる」
つやつやとした実を口に運び、噛みしめる。
果汁はたっぷりとしていて、濃い酸味と甘さが舌の上に広がる。
気をつけないと、口元からしたたり落ちそうだ。
見れば、乾も自分の唇を指先で拭っていた。
薄い唇から、舌が少しだけ覗いていた。
「乾」
「ん?」
「手を、見せてもらっていいか」
「いいよ。ちょっと待って」
乾は用意してあったウェットティッシュで手を拭こうとする。
「そのままでいい」
「……いいのか?」
乾は、ちょっと驚いた顔をしたが、結局は手塚の言う通りにしてくれた。
「はい」
掌を上にして、手塚の前に広げてみせた。
差し出されたのは右手だった。
やはり、掌が大きい。
それに釣り合うためなのか、随分と指も細長い。
中指にはペンだこがあり、掌にはラケットだこがある。
オレンジの果汁のせいで、甘酸っぱい香りがした。
その手に、自分の左手を乗せてみた。
「手、汚れるよ」
「もう汚れている」
乾は少しだけ笑っていた。
「大きい手だな」
「そうかな。手塚とそんなに違わないと思うけどね」
乾は手塚の手を取り、くるりと向きを変える。
立てたお互い掌をぴたりと合わせ、大きさを確かめた。
全ての指が、手塚よりも幾分長い。
「ほら、大差ないよ」
「いや、全然違う」
「頑固だな」
乾には、大きな差ではないのかもしれないが、手塚の目にはそうは映らない。
きっと、乾の側から見たら、自分の手は隠れているだろう。
「気持ち悪くないか」
「何が」
「手が、べたべたしてるだろ」
「お前は気持ち悪いか?」
手を合わせたまま、乾の目を見つめる。
乾は数秒考えてから、静かに口を開いた。
「いや、平気だ」
「俺もだ」
ふと乾の目が細くなる。
きっと、笑っているのだ。
乾の右手と自分の左手が、同じ果汁に塗れて、同じ香りをさせている。
それが嬉しいのか恥ずかしいのか、自分でもよくわからない。
だけど、もう少しだけ、こうやって乾の手に触れていたかった。
2008.07.22
中学生乾塚。そういう関係になって「三回目」の朝。
ものすごく遠まわしなエロスを書きたかった。