ソフトフォーカス
いくつになっても、夏休みは、わくわくするものだ。昆虫採集やプールに行かなくたって、楽しいことは沢山ある。
例えば、ふだんはあまり見られない、手塚の私服姿を見られたりする。
しかも場所は俺の部屋で、手を伸ばせばすぐに触れられるほどの近さだ。
学校のある時期は、二人きりになれる時間さえ、なかなか持てない。
でも今日は、手塚は午後の早い時間に来て、すでにもう2時間以上が経っている。
帰りの時間まで、まだまだ時間はたっぷりと残っているのだから、やっぱり夏休みは素晴らしい。
クーラーは、あえてつけずに、窓を開けて風を入れる。
それだけじゃ、やっぱり暑いので、扇風機をつけてみた。
暑いのが嫌いじゃないという手塚は、ときどき吹き込む強い風に、心地良さそうに目を細めている。
少し伸びた髪の毛が揺れて、いっそう涼しげに見えた。
いつもなら、コートの上でボールを追いかけている時間だ。
どうも不思議な感じがする。
今日の手塚は、ターコイズブルーのポロシャツを着ていた。
襟と袖に白いラインが入っていて、すっきりとしたデザインだ。
ポロシャツ姿は、ほとんど毎日見ている。
でも、それがユニフォームではなく、私服だというだけで、乾の目には新鮮で魅力的に映った。
これも、やっぱり夏の楽しみだと思う。
手塚は、乾が時間のあるときに作ったテニスに関する資料を、さっきから熱心に読んでいた。
ネットで手当たりしだに調べたものを、自分なりにまとめなおして、紙に打ち出したものだ。
休日であっても、テニスのこととなると、どうしても後回しにはできないらしい。
それでも、やっぱり部長の顔とは、少し違って見えた。
――もっと、俺しか知らない顔を見てみたい。
だから、少しだけ手塚に意地悪をしてみることにした。
手塚は今、乾のベッドに、足首を交差させて座っている。
気づけば、手塚はいつもそのポーズで座っていた。
そんな癖があることを知ったのは、この部屋に来るようになってからだ。
きっと他にもまだ、自分の知らない手塚がいるはずだ。
「手塚」
「ん?」
乾の呼びかけに、手塚は少しだけ顔を上げて答えた。
その無防備な表情に、乾は笑い出したくなるが、今は微笑む程度に抑えておいた。
「俺とキスしない?」
手塚は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに眉を寄せて乾を睨んだ。
予想通りの反応に、ますます嬉しくなる。
「駄目かな」
「駄目だ」
手塚は、早口でそう言うと、手元の本に視線を落としてしまった。
乾とは目を合わせたくないらしい。
「どうして?」
手塚は何も言わない。
下手な言い訳をするくらいなら、沈黙を選ぶ性格なのだ。
でも、耳が赤くなってきたのを、乾は見逃したりはしない。
「俺とキスするの嫌なの?」
「嫌だ」
乾は、手塚にやっと届くくらいの声で、短く笑った。
もちろん、これも意地悪のひとつだ。
「初めてじゃないのに、嫌なのか」
「あれは、お前がいきなり――」
手塚は、ぱっと顔を上げてそこまで言うと、すぐに黙り込んだ。
今度は、はっきりと頬まで赤かった。
「うん。そうだな。あのキスは、俺が不意打ちでしたんだよね」
あれは、春が終わる頃だった。
お互いに好意を持っているのは、薄々感じていたけれど、口に出せずにいた時期だ。
たまたま部室に残ったのが、乾と手塚のふたりきりで、自然と一緒に帰る雰囲気になった。
部室の戸締りをしようとした手塚が、左手から鍵を落とした。
その鍵は乾が拾い上げ、そのまま手渡すつもりだった。
なのに、気づいたら手塚の掌に自分の手を重ね、ぎゅっと握っていた。
そして、次の瞬間には、手塚の唇にキスをしていた。
手と手の間に、冷たい金属の感触がしていたことを、今でも覚えている。
衝動的な行動の言い訳は、結果的には告白と同じ意味だった。
手塚は怒ることもなく、自分も同じだと言葉を返し、それが不器用すぎる恋愛の始まりになった。
きっかけはどうあれ、それからはゆっくりとだけど、互いの距離は確実に縮まっている。
「今度は、不意打ちじゃなくちゃんとしたいと思ったんだけどな」
耳も頬も赤い手塚は、何も言わない。
言わないのじゃなく、言えないのかもしれない。
いつも冷静で、堂々としている相手のこんな反応は、正直ちょっとそそられるものがある。
手塚には悪いが、もうちょっとだけ追い詰めてみたい。
「俺とするのは嫌?」
もう一度、同じ言葉で聞いてみた。
「……嫌というわけじゃないが、今は駄目だ」
「理由を聞かせてくれないか」
いつもの手塚なら、しつこいと怒り出しても良さそうなのに、なぜだか今日はそんな素振りは見せない。
そこまでの余裕もなくなっているのだろうか。
だとしたら、乾の作戦は大成功だと言えた。
「……明るすぎる」
呟くような声は、手塚らしくないほど歯切れが悪かった。
「夜ならいいってこと?」
「そうじゃない」
今度は、少し声が大きくなった。
「顔が見えるから」
それだけ言うと、手塚は今度こそ怒ったような顔をして、そっぽを向いた。
これも想定済みの反応だ。
乾は、手塚がこっちを見てないことを承知の上で、にっこりと笑った。
「じゃあ、眼鏡を外せばいい」
「俺が?」
「うん。見えるのが嫌なら、見えないようにすればいい。」
小学生でもわかる単純な理屈だ。
だが、手塚は不満そうに乾を睨んだ。
理解はしても、納得はしていないという顔だ。
それはそうだろうと、乾も思う。
「俺も外すよ。そしたら、お互いよく見えない。フェアだよね」
そもそも、乾の一方的な願望なのだから、公平だと言い出すのがおかしい。
だが、そこを舌先三寸で丸め込むのは、乾の得意技だ。
手塚は、何かを考えている顔で、大人しく座っている。
この様子なら、折れるのも時間の問題だろうと推測した。
乾は、自分の椅子から立ち上がり、手塚のとなりに座りなおした。
さあ、ここからだ──。
最初の一手をどこに置くかを決める前に、手塚が先に口を開いた。
「眼鏡を外す、必要性がわからない」
手塚の声は、妙に冷静な声だ。
「え?今説明したとおりだよ」
「そうじゃない。そもそも、どうして、したいんだ?」
『どうして』の後ろに続くのは、『キスを』なのだろう。
「ああ、なるほどね」
乾は、こりこりと頭の後ろを掻いた。
正直なところ、この反応は想定していなかった。
抵抗は予測できたが、こう素直に疑問を投げかけられると、ちょっと困る。
なので、とてもつまらない返事をしてしまった。
「やってみればわかるんじゃないかな」
「ずるい答えだ」
「自分でもそう思う」
本当なら、ここで気のきいた言葉を返して、かっこよくキスをするのが理想だろう。
だが、乾の経験値では、そんなことは不可能に近い。
なので、雰囲気で流してしまう方法を選んだ。
「でも、説明するよりやってみた方が、間違いなく早いから」
ね?と乾が念を押すと、手塚は不満そうに唇を結んだ。
だが、少し目に落ち着きがなくなっている。
いい傾向だ。
あくまで、乾にとって。
手塚がまた何か言い出す前に、眼鏡を外して、逃げられない状況にしてしまおう。
多少卑怯だが、今なら有効だ。
「外すよ」
乾が、片手を目の高さに上げると、手塚がぴくっと頭を後ろに引く。
思わず、といった感じの反応だった。
「先に俺のを外していいよ」
乾は、自分の両手を下ろし、手塚に向けて少しだけ首を前に傾けた。
譲歩しているように見せて、実はコントロールしているのはまだ乾の方だ。
それに気づいているのかどうかわからないが、手塚は、無言で乾の眼鏡に手を伸ばした。
眼鏡を外される間、乾は目を閉じていた。
それでも、手塚の視線はしっかりと感じられる。
笑ってしまいそうになるのを堪えて、手塚が眼鏡をはずすのを、大人しく待った。
ただ眼鏡を外すだけの行為に、長い時間は必要としない。
耳から完全に取り外されたのを確認して、ゆっくりと目を開けた。
視界は眩しく、目の前にいる手塚の顔は、ピントが甘い。
「今度は俺の番だ」
手塚は、もう覚悟が出来ていたのか、手を伸ばしてもさっきのような反応は見せなかった。
左右のテンプルに、そっと手を置くと、手塚は静かに目を伏せた。
目の悪い乾でも、この距離ならば、それくらいは見える。
間近に見る手塚の顔は、テニス部員にしては白かった。
耳も頬も、今は色づいていない。
それが、なぜだか乾を落ち着かなくさせた。
なんだか、さっきよりも心臓がどきどきする。
このまま見ていると、指が震えだしそうで、そうなる前に手塚の眼鏡を取り上げた。
細いフレームの眼鏡は、乾のものよりもずっと軽い。
乾の眼鏡は手塚の手に、手塚の眼鏡は乾の右手にある。
そのまま乾は、目を閉じて、静かに唇を重ねた。
嘘のように柔らかい感触だった。
唇以外で触れているのは、互いの膝だけだ。
それだけじゃ物足りなくて、飽いた手で手塚の肩を包み込む。
硬くしまった手塚の肩は、乾の掌にちょうどよく収まった。
じんと頭の中が痺れた感じがした。
いったん唇を離すと、背中に暖かいものが触れた。
ああ、手塚の掌だ──。
すぐにもう一度、唇を重ねる。
眼鏡をベッドの上に置き、両手で手塚を首と肩を抱く。
手塚も同じように、両の手で、乾の背中を抱いた。
苦しいのは、唇を塞いでいるからだけじゃない。
好きだよ、と心の中で語りかけたら、背中に回された手に、ぎゅっと力が加わった。
きっと偶然なんかじゃないと、乾は思った。
「わかった」
キスを終えて、眼鏡のない手塚は、視線を空に向けてつぶやいた。
「え?」
思わず聞き返した乾の方を向いて、手塚は僅かに首を傾けた。
「……ような気がする」
「さっきの話?」
「ああ」
手塚の顔は、乾に向けられているけれど、その目に自分が映っているかどうかまでは、わからない。
もしかしたら、何も見ていないのかもしれない。
「少しだけど」
間を置いてから、そう付け足して、手塚はふっと小さく息を吐いた。
多分、笑ったのだと思う。
「そうか」
乾はそう答えながら、度は自分の耳朶が、熱くなるのを感じていた。
今になって、どうして――。
多分、手塚には、今の乾の状態は、良く見えてないはずだ。
手塚も自分もまだ眼鏡をかけていないことが、本当に有難かった。
フォーカスが甘いはずの手塚の顔が、まともに見られない。
意地悪は、ほどほどに。
こういうことは、最終的には自分に返ってくるのが常だから。
わかっているはずなのに、性懲りもなく同じミスを繰り返す。
手塚が眼鏡をかける前に、早く耳朶の熱が引きますように。
自分のことは棚に上げて、虫のいいことを考えた。
窓の向こうには、ピントの合わない青い空がぼんゆやりと広がっている。
2011.08.21(8.26一部修正)
夏休みの眼鏡はロマンがいっぱい。なんだかんだで、天然は強力ですなあ。