spin
別々の高校に進学した乾と手塚は、残念ながら会いたいときに、すぐに会うというわけには行かない。部活や学業に忙しい高校生には、自由になる時間は、実はそれほど多くないのだ。
と言っても、その気になれば30分くらいで会える距離に住んでいるのだから、寂しいと思うことは少ない。
夏休みに入って一週間。
すでに、乾の顔を見るのは三度目だ。
特に、今日は、一日なにも予定がなく完全にフリーだ。
乾も同じだったようで、もし良かったら家に来ないかと、夕べのうちに連絡をくれたのだ。
もちろん断る理由はなく、今日は午前中から乾の部屋に上がりこんでいた。
会ったからと言って、特別なことをするわけではない。
たいていの場合は、乾が淹れたコーヒーを飲みながら、ただ話をするだけ。
お互いの学校のことや、テニスのこと。
最近見た映画や、面白かった本の話。
後から思い出してみれば、どれも他愛もない話ばかりだ。
だが、そんな話でも乾の声で聞くと、なぜかとても楽しい。
今日の乾の部屋は、暑過ぎも涼しすぎもせず、ちょうどいい温度だ。
開け放した窓から、心地よい風がずっと吹き込んでくるせいだろう。
クーラーが苦手な手塚には、ありがたい。
マンションの高い階からの眺めも、手塚には新鮮だ。
お世辞にも片付いているとは言えない部屋だが、居心地は悪くない。
それを乾に言ってしまうと、ますます片付けるのをさぼりそうなので、本人には伝えないようにしている。
乾が、つい最近買った小説の話を始めたところで、借りていた本のことを思い出した。
「そうだ。お前から借りていた本、読み終えたから持ってきたんだ」
「ああ、もう読んだのか。ゆっくりで良かったのに」
「ありがとう。面白かった」
持ってきたボディバッグから、10日ほど前に借りた本を取り出した。
「汚したら悪いと思ったので、勝手にカバーをかけた。このままでいいか?」
水色の和紙をかかった本を乾に手渡すと、乾は少し目を細めて微笑んだ。
「ああ、うん。ありがとう。このまま使わせてもらうよ」
母から分けてもらった薄手の和紙は、涼しげな青海波模様が入っている。
今の季節にはぴったりだから、使ってもらえるのは嬉しい。
手塚は良く本を読むほうだと自分でも思っているが、乾はもっと上を行く読書家だ。
乾が本好きなのは、中学時代から知ってはいたけれど、こうやって部屋に招かれるようになってその乱読ぶりには驚いた。
文学作品のとなりに、なぜかビジネス書が並んでいて、さらにそのとなりには料理の本があったりするのだから。
だが、小説に関しては、なぜだか妙に好みが近いらしく、同じような傾向の作品を読んでいた。
手塚が、それを知ったのは、高校に入ってからだ。
中学のころは、そんな話をする機会がなかったのだ。
乾の本棚には、手塚も持っている本や、読んだことのある作者の本が沢山並んでいた。
互いの趣味が近いことがわかってから、自分が持っていて相手がまだ読んだことのない本を、自然と貸し借りするようになった。
毎日顔を合わせるのが不可能な自分達には、次に会う口実を作れるから、という理由もおそらくはある。
平均したら、会うのは月に一度か二度。
その間に借りた本を読み、次に会ったときには感想を伝えて返す。
ただそれだけのことだが、借りたものを手にしていれば、嫌でも相手のことを思い出す。
多分、それも込みで楽しいのだろう。
それに、別々の学校にいる乾と、共有できるものがあるのは、単純に嬉しかった。
乾も、きっと似たようなことを感じていると、勝手に信じている。
手塚が返した本を軽く眺めてから、乾は曖昧な笑顔を手塚に向けた。
そういう顔をすると、何かたくらんでいるようにも見える。
「手塚は、スピンを使わない派なのか」
「それしかない時は使う」
「じゃあ、普段はどうしてる?」
「よくある紙の栞だな」
どうして、手塚がスピンを使わないことを知っているのか。
その疑問が多分、顔に出ていたのだろう。
質問を返す前に、先に乾が答えをくれた。
「手塚に貸してた本を見ても、スピンを使った形跡がないからさ」
「人の本だからな。勝手に動かすのは悪いかと思った」
「いや、気にしなくていいよ」
乾から借りた本のすべてに、スピンがついていたわけではない。
だが、ついている本の場合、どれも買ったときのまま動かしていないように見えた。
スピンについてしまった癖とか、ページにわずかに残る痕跡から、そう推測できた。
だから、なんとなく手塚も、そのままにしておいたのだ。
「お前も使っていないようだが」
「栞もスピンも使わないね」
確かに乾から借りた本には、栞は挟まっていなかったし、かわりになるようなものも見当たらない。
「じゃあ、どうやって読み終えた箇所を探すんだ?」
「簡単だよ。読み終えたページ数を覚えればいい」
「いちいち記憶するのか?」
「そうだけど」
乾は、なぜそんな質問をされるのかわからないという調子で答えた。
「読みかけの本が複数あるときは、どうしているんだ」
「それぞれ、覚えるだけだ」
手塚が黙り込んだのを見て、乾は不思議そうに首を傾げた。
「驚くことかな」
「多分」
乾が記憶力がいいことは、よく知っている。
だが、いちいちページ数まで記憶するのは、普通のことだろうか?
少なくとも手塚なら、すぐに忘れてしまうし、覚えようとすること自体が面倒くさい。
それをそのまま乾に伝えると、今度はさっきと逆の方向に首を傾けた。
「手塚って変わってるな」
「お前にだけは言われたくない」
「そんな冷たい言い方をしなくても」
乾は、小さく声を上げて笑ってから、楽しそうに目を細めた。
「でも、そういうところが」
そこまで言って、なぜだか口をつぐんだ。
「なんだ」
「いや、なんでもない」
途中で止められると、続きが気になる。
でも、乾はその先を言おうとはしなかった。
心なしか、なんとなく耳が赤いような気がする。
「やっぱりお前の方が変だ」
「そうかな」
乾は、コーヒーの入ったマグカップを口に運び、視線だけを手塚に向けた。
出会って何年も経つけれど、未だに乾という人間を、手塚はつかみきれないでいる。
意地が悪いかと思うと、案外お人よしで、でも油断するとやっぱりどこか危ない。
器用なところと、不器用なところの差も激しい気がする。
「でも、面白くていい。つきあっていると退屈しない」
「それ、ほめてるの?」
けなすつもりも、ほめているつもりもない。
ただ、事実を口にしているだけだ。
「お前みたいな奴は、他にいないからな。俺は好きだ」
ぐふっと変な音がした。
慌てたように、乾が口元を押さえている。
どうやら、コーヒーを噴出しそうになったらしい。
なんとかそれを飲み下したあとで、乾は赤い顔を手塚に向けた。
「いきなり、なんてこと言うのかな」
「おかしなことを言ったか?」
「おかしくないよ。すごいだけで」
「すごい?なにが、すごいんだ」
手塚は、素直に自分が感じたことを告げただけだ。
「そういうとこだよ」
やっぱり乾の言うことは、よくわからない。
だけど、かみ合っているようないないような、そんな会話をするのも結構楽しい。
まだ少し赤い顔で笑う乾は、いつもよりちょっと可愛く見えた。
2011.08.02(8.23一部修正)
手塚は綺麗な栞を使っていそうな気がする。乾は栞を失くしそうなので、ページを記憶するのだと思う。
全体のページ数も把握しているので、ページを繰るのも速いと思う。