砂糖入りの玉子焼き

「甘い卵焼きって、俺、意味わかんない」
その越前の言葉は、ある意味、爆弾発言だった。
越前が、甘い卵焼きの意味をわからないからといって、越前以外の人間は別に困ることはない。
だが、不思議とこういう発言は無視できない、やっかいな吸引力を持っている。
越前にしてみれば、深い意味もなく言ったことだろう。
だが、次の瞬間には部室に残っていた先輩達からの一斉反撃が始まっていた。

「なになになに。おチビの言ってることが、俺にはわかんない」
「そうだ!越前、聞き捨てならねえな!」
間髪置かずに反論をしたのは、三年生の菊丸と、二年の桃城だった。
二人はほぼ同時に、小さな一年生に掴みかかりそうな勢いで、正面から詰め寄った。

普通の一年生なら、先輩達に、こんなことをされれば怯えてしまうだろう。
しかり、越前は煩そうに、少し顔を背けただけで、平然と反論を述べ始めた。
「え?や、だから、ご飯と甘いものって組み合わせ、おかしいじゃないっすか」
「おかしくなーい!全然おかしくない」
大きな声を上げる菊丸の隣で、がっくりと肩を落としているのは、いずれは寿司屋を継ぐはずの河村だった。

「……そうなんだ。越前、砂糖の入った玉子焼き、嫌いなのか」
寿司屋にとって、玉はその店の顔みたいなものだ。
それを真っ向否定されたのだから、落ち込むのも無理はない。

「あ、寿司ネタは別です。あれは好き」
ケロッとした顔で、そんなことを言うものだから、事態はますます混乱してきた。
「越前はアメリカ帰りだから、日本の伝統的な味が理解できないんだよ」
「いや、俺、和食党っすから」
河村を慰めるように、青学のナンバー2が笑顔で言ったのに、越前はすぱっとそれを台無しにする。

「俺は越前と同じだな。実は甘い玉子焼きは苦手でね」
仲間だな、と乾は黒縁の眼鏡をきらりと光らせた。
そのとき越前は、少し迷惑そうな顔をしたのだが、当の乾は気づいていないようだった。

「じゃあさ、越前は桜でんぶも嫌いなの?」
不二が問いかけると、普段は生意気なルーキーが、このときばかりは可愛らしく首を傾げた。
「桜でんぶって、なんすか?」
ここで、数人の部員が、こけた。
しかし、質問を投げかけた天才だけは、穏やかな笑みを絶やさずに説明を始めた。
「ちらし寿司なんかに乗っかってる、ピンク色でふわふわした甘いそぼろだよ」
「ああ、わかったわかった。うん。嫌いっす」

ここでまた河村が落ち込んだ。
「そうか……。越前は桜でんぶ、嫌いなんだ……」
もちろん河村寿司でも、鯛で作った特製の桜でんぶを使っていて、ときには河村本人が、でんぶ作りを任されることもあるのだ。
玉子に続き、でんぶまで否定された河村は悲しそうな表情で俯いていた。

「でもご飯と一緒じゃなきゃ、好きです」
この発言に、河村を慰めていた桃城が、ぶち切れた。
「お前、わけわかんねえよ!桜でんぶ抜きのちらし寿司なんて、ちらし寿司じゃねえぞ!」
「わけわかんないのは、桃先輩ですよ。どうやって食べようが、俺の勝手じゃないっすか」
この論争は、さらに周り巻き込み、狭い部室の中でどうでもいいような意見が飛び交っている状態だった。
「俺もちらし寿司の桜でんぶは苦手だが、海苔巻きに入っているのは好きだな」
またまた乾が分厚い眼鏡のレンズを光らせながら呟いていたが、今度は誰一人聞いてはいなかったようだ。

砂糖入りの玉子焼きは「あり」か「なし」か。
こんなことを議論したところで、答えが出るようなものではないことは、この場に居合わせた全員がわかっている。
しかし、このままでは収まりがつかないので、とりあえず今いる部員で決を取ってみようという話になった。
それぞれ好きな方に手を挙げさせてみると、甘い玉子焼き派がやや優勢で、割合で言えば6対4という結果になった。

「意外と拮抗したな」
乾が、眼鏡のブリッジを右手の中指で押し上げながら呟いた。
「本当だね。甘いほうが人気があるのかと思ってたよ」
その隣で、不二も目を細めて頷いた。
この騒動のきっかけを作った越前は、すでにどうでもよくなっているらしく、退屈そうな顔で椅子にに座っていた。

「ところでさ、手塚はどっちだろうね」
不二はさらに目を細め、いたずらっぽい口調で言う。
生徒会長でもある手塚は、ここ数日そちらの方が忙しく、今日の部活には顔を出していなかった。
「手塚……は塩派じゃないかにゃ」
「うちの店に来たときは、玉子も食べていたけどね」
色々な見解が出はしたが、どれもこれも確信のある発言ではない。

「乾。君のデータにないの?」
不二からの質問に、乾は軽く首を横に振ってみせる。
「残念だが、そこまではわからないな。玉子焼きそのものは好物のようだが、砂糖派か塩派を判断するデータはない」
愛用のノートをぱらぱらと捲っているが、そこには玉子焼きに関する記録はないようだ。

「だめじゃーん」
「今後の課題だな」
正直すぎる菊丸の一言だったが、乾は怒る様子はない。
他の人間なら嫌味になる言葉であっても、菊丸が口にするとなぜか許せてしまうのだ。

青学の母と呼ばれる副部長は、辛抱強くじっとみんなの発言を聞いていたが、そろそろ潮時と踏んだのか、残っていた部員に帰宅を促した。
お疲れ様と声をかけあって、部員たちが次々と部室を出て行く。
ついさっきまで、対立関係にあったはずなのに、越前は、ちゃっかりと桃城の自転車の後ろに乗って帰っていた。
手塚がいたら、二人乗りなんて絶対に許さないところだ。
他の部員もなんとなく、ばらけていき、今は同じ方向に向かう不二と乾の二人が横並びで歩いていた。

「なんだか、妙に盛り上がったね」
不二がくすりと笑うと、隣の乾もふっと小さく微笑んだ。
「そうだな。たまにはいいんじゃないか。親睦を深める意味でも」
親睦という言葉が適切かどうかは疑問だが、先輩後輩という垣根を越えて、わあわあ言うのは悪くはないと不二も思う。

「手塚がいたら、早く帰れって全員追い出されていたよね」
「恐らくそうだろうな」
不二には、眉間に皺を寄せて仁王立ちする手塚の姿が、簡単に想像できてしまう。
くすくす笑っていると、さっきと同じ疑問がふっと頭に浮かんできた。
「手塚だったら、どっちを選んだのかな」
「甘いのも甘くないのも、どっちも好きだよ」
乾の冷静な声が、すぐに返ってきた。

不二が顔を上げると、にやりと唇の端を持ち上げる乾と目が合った。
「なんだ。やっぱり、知ってたんじゃない」
「まあ、それくらいは」
「じゃあ、なんでさっきは言わなかったの。出し惜しみ?」
「ああ。そういう貴重な情報は、簡単には公開しない」
乾は澄ました顔で、そんなことを言ってのけた。

「手塚の玉子焼きの好みが貴重……かな」
「俺にとっては」
半分呆れながら乾の顔を見上げてみれば、乾はなにか意味ありげな視線を返してくる。

「食べ物で釣るってのは、案外と有効な手段なんだよ」
「まさか、玉子焼きで手塚を落とすつもり?」
「それに近い」
ふふっと低い声で、乾は笑った。
部活中には、殆ど聞いたことのない声だ。

「あの手塚が玉子焼きで、落ちるのかな」
「やってみる価値はあるさ」
不二にではなく、自分に聞かせるように呟いて、乾はまた低く笑った。

乾は、しらばっくれているけど、本当はもうとっくに落ちているのではないか。
根拠のあることではないが、そんな気がする。
聞いても乾は教えてはくれないだろうけど、妙に自信に満ちた笑顔の中に答えがありそうだと、不二は思っていた。


2008.11.15

甘いのが好き派 桃、菊ちゃん、海堂、一年生トリオ
甘くないのが好き派 乾、不二様
想定したのは、こんな感じ。他の部員は、あまりイメージが浮かばなかった。
お話上、リョマを甘いのが嫌い派にしましたが、正直に言うと砂糖入りが好きなイメージ。