Vibraphone
乾は、とてもいい声をしていることに気がついたのは、二人でいる時間が増えてからのことだったように思う。他に誰もいない静かな場所で聞く乾の声と、部活中に聞く声は同じではない。
すぐ近くで聞く、普段よりも少し低く柔らかい声の方が、好みな気がした。
部活後に、二人で話す機会が増えたのは、乾がレギュラー落ちしたのがきっかけだった。
部長になったばかりの頃から、大石と乾には色々と助けてもらっていた。
それが特に顕著になったのは、レギュラーから外れた乾が、部員のサポートに回るようになってからだ。
日々の練習メニューや試合時のオーダーの相談相手として、分析力に長けた乾は最適だった。
それだけじゃなく、ついレギュラー中心になってしまいがちな部活の中で、後輩への指導を積極的に引き受けてくれる乾の存在は、とても大きかった。
最初は大石を入れた三人で話し合いをしていたが、なぜだかこの組み合わせだと、中々うまく意見がまとまらない。
そのうち、乾と二人で決めた案を、改めて大石に確認してもらうというやり方に落ち着いた。
話し上手でもあり、聞き上手でもある大石はクッション役でもあったので、最初のうちは多少の不安があった。
だが、いつの間にか、噛み合わないと思っていた乾の考え方が、すっと理解できるようになってきた。
乾もきっと、言葉の足りない説明に段々慣れてきたのだろう。
自分でも歯がゆくなるような言い方になってしまっても、ちゃんと受け止めてくれるのだ。
不思議なもので、一度その感覚を覚えてしまうと、乾と話すのは、他の誰よりも楽になってきた。
レギュラーに戻ってからも、乾は変わらずにサポートし続けてくれていた。
有難く、その好意に甘え、今では乾のことを誰よりも頼りにしてしまっている。
部活後も頻繁につき合わせてしまっても、乾は嫌な顔ひとつしない。
そして、長く一緒にいるうちに、二人でいるときにしか見せない顔や、聞くことのできない声があることに気がついた。
部室は狭いから、大きな声を張り上げる必要はない。
目の前に座る乾は、普段よりも低く静かな声で、話しかけてくる。
その声を聞いて、初めて気づいたのだ。
乾は、すごくいい声をしている。
中学生らしくない、落ち着いた、耳に心地良い声だ。
ずっと聞いていたい声があるということを、俺は初めて知った気がした。
それ以来、ときどき乾の声に聞きほれて、会話することを忘れてしまうことがあった。
そのときも、とても大切なことを言われたのに、響きの良さに気をとられ、何を言われたのか、わかっていなかった。
静かだった。
部活はとうに終わり、部室に残っているのは二人だけ。
いつものように、机の角を挟んで座っていた。
乾の前には、一冊のノートが広げられている。
びっしりと並ぶ細かい文字は、今はもう見慣れてしまった。
いつもと何も変わらない時間だった。
乾の声は、やっぱり静かで、空気を沢山含んでいるようだった。
ああ、本当にいい声だ。
そればかり、考えていた。
「手塚が、好きだ」
乾は、そう言った。
多分、さっきも、同じことを言ったのだろう。
困ったような、それでも優しい目で、じっと俺を見ていた。
「知っていた」
自然と、そう答えていた。
口に出してから、自分の言葉に驚いた。
そうだ。
俺は、知っていた。
どうして、二人でいるときしか、見られない顔、聞けない声があるのか。
それが、ものすごく嬉しいのは、なぜか。
ずっと前から、ちゃんと、知っていたのだ。
「そっか」
乾は、軽く握った右手を口元に運んで、くすっと笑った。
「そうだ」
同じように、笑い返したら、乾は小さな声で呟いた。
「え?」
何を言ったのか良く聞こえなくて、乾の方に少しだけ身体を傾ける。
乾の右手が伸びてきて、肩を支えた。
その一秒後に、乾と唇を重ねていた。
触れ合っていたのは、ほんの僅かな時間だったと思う。
唇を離した乾は、歯を見せて笑った。
「まいったな、って言ったんだ」
「そうか」
「そうだよ」
肩に乗ったままの手を取り、自分の手を重ねる。
大きな手は、とても暖かい。
ずっと、この手に触れてみたいと、思っていた。
そんなことさえ、今やっと気づいた。
「俺は、いつか、手塚を」
そこまで言って、乾は口を閉じた。
しばらく待っていても、乾はその先を言わなかった。
「いつか、なんだ?」
「いや、今は止めておく。そのうち、言うよ」
低いけれど、はっきりとした声が耳に届く。
俺の好きな乾の声が、二人の間の空気を揺らす。
「わかった。楽しみに待っている」
顔を上げると、乾は首を僅かに傾げ、眉尻を下げて微笑んでいた。
嬉しいのか、困っているのか、判別のつかないその顔を、俺は愛しいと思った。
2008.01.20
手塚一人称を書くのは、実は苦手です。嫌いなんじゃなくて、照れてしまう。でも、これは「俺」にしないと駄目だろうと思ったので、「俺」です。
「俺は、いつか、手塚を」に続く言葉は、前に語ったあれです。
…これ、もしかして、塚乾じゃないのか。ああああ、あれ?いや、乾塚です。乾塚なんです。