■A DAY FOR YOU 1
かつん、と硬質な音が人気のないフロア全体に響く。
ひとつの階の部屋数が極端に少ないから、手塚は乾の住むこのマンションで他の住人と顔を合わせたことが一度もなかった。
きっと、乾がこのマンションを選んだ理由のひとつはそれなのだろう。
そういうことには、とにかく気の回る男だから。
手塚はコートの内ポケットから合鍵を取り出し、ドアを開ける。
指先が冷え切っていて、開けるのに少々手間取った。
最近乾の帰りが遅いことは知っている。
今日は乾に会いに来たというより、仕事に行ってるうちに少し部屋でも片付けておいてやろう。
そう思って、わざといない時間を選んでこの部屋に来た。
重いドアを開けると、いつも片付けられている玄関に靴がいくつか出しっぱなしになっていた。
それを寄せて並べ、自分の靴を脱ぐ。
廊下を抜けリビングへと向かい、薄いドアを開けた。
「いらっしゃい」
思いがけない言葉を掛けられ、手塚は持っていた荷物を落としそうなった。
「なんで、いるんだ!」
あまりに驚いて、場違いなくらい大きな声が出た。
「なんでって、ここ俺の家だよ?」
乾は軽く笑いながら、テレビの前のローソファに足を投げ出す姿勢で座っていた。
長袖の黒いTシャツに、薄手のスウェット地のパンツ。
完全にくつろいだ服装だ。
「そういう意味じゃない」
手塚は時間を勘違いしていたかと、慌てて腕時計を見たが
針は間違いなく午後の3時45分を示している。
「なんで、こんな時間にお前がいるんだ」
重ねてそう聞くと乾は少し困った顔で笑い、人差し指を自分の足首に向ける。
「ちょっとね、やっちゃった」
乾が指差した場所に目をやると、乾の右の足首には真っ白い包帯が巻かれていて
そこには医療用のアイスパックがのせられていた。
驚いて息を飲む。
「…どうしたんだ」
手塚は持っていた荷物を足元に置くと、急いで乾の隣まで行きその場に膝をついた。
「捻挫、した」
「見せてみろ」
「…コートくらい脱いだら?」
乾の声を無視して、手塚はそっとアイスパックを外す。
真新しい包帯の巻かれた足は、外くるぶしのあたりが湿布越しでもはっきりとわかるほど、ひどく腫れ上がっていた。
「ひどい腫れだな」
自分の眉間に皺が寄るのがわかる。
だが当の本人は他人事のように冷静に答える。
「捻り方が悪かったみたいだ」
「どうして捻挫なんかしたんだ」
つい厳しい口調で言うと、乾は苦笑しながら事情を説明し始めた。
「会社の資料室で、脚立から落ちた」
「…お前らしくないな」
「まあね。…ここんとこ睡眠不足気味だったせいか、棚の上の資料を取ろうと思ったら目が回っちゃってさ。やばい、と思ったときには落っこちてた」
そう言われてやっと気づいた。
良く見ると、乾の顔には数箇所に小さな擦り傷のようなものがある。
どれもたいした傷ではなさそうだが、少し心配になる。
「他には?どこか怪我してないのか?」
「あちこちぶつけはしたけどね。普段鍛えてるせいか、おかげさまで捻挫だけですんだよ」
「ちゃんと鍛えてるなら、脚立からなんか落ちるな」
「…確かに」
はは、と乾は笑う。
「医者には見せたのか?」
「うん。会社から真っ直ぐに行った。上司から今日はそのまま帰れって言われたからそうさせてもらった」
「…医者はなんだって?」
「ただの捻挫だけど、二箇所腫れてるらしい。だからちょっと治るのに時間がかかるかもしれないって。全治一週間から10日ってとこかな」
淡々と話す乾の顔を見ていると、一瞬でもうろたえた自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。
だが、確かに切り傷を作った顔はいつもより白く、本当に疲れているのだと思うと心配せずにはいられなかった。
「…痛むか?」
「多少は」
こんなときでも乾は静かに笑っている。
乾は自分の前では決して痛がるところを見せたりはしないだろう。
そう思うと少し腹立たしい。
手塚は立ち上がり、ようやくコートを脱いだ。
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