■A DAY FOR YOU 2
手塚は温くなったアイスパックを良く冷えたものと換えてやる。
乾の家の冷蔵庫には、そんなものがいつも常備してある。
ありがとうと微笑む乾に、手塚は意識的に作った低い声で話し掛けた。
「明日は仕事を休めるのか?」
「まさか。ただの捻挫で休むわけには行かないよ」
「ちゃんと…歩けるのか」
「当分はデスクワークに回してもらうさ。ちょうど大きい仕事が片付いたところでよかったよ。あまり迷惑をかけずに済みそうだ」
乾は一度ため息をつくと、大きなクッションに身体を沈ませた。
自分は乾のように会社という組織で働いたことがないから、
乾が背負っている責任を理解はしてやれない。
だが、実感としてわかる。
乾のような人間が、自分の不注意で誰かに迷惑をかけるのは本当に情けないのだろう。
「明日から、しばらくは車で通勤だな」
「その足で運転は辛いんじゃないのか」
乾が寝そべるソファの隙間に、自分も腰をかける。
天井を見上げる乾のあごに、またひとつ切り傷を見つけた。
「でも駅の階段の方が辛いよ、きっと」
「それは、そうだな」
「嫌だな、渋滞」
乾は渋滞を嫌って、いつも電車で通勤している。
少し前までは終電を逃して、タクシーで帰宅することも多かった。
だがこの足で、電車で通勤することは到底無理だろう。
「俺が車で送り迎えしてやる」
そう言うと、乾はいきなり半身を起こした。
「え?」
「普通に歩けるようになるまで、俺が毎日送り迎えする」
乾は目を丸くして、無言で手塚の顔を見ていた。
「その代わり、しばらく泊めてもらうからな」
「本気で言ってる?」
「ああ。今日は何も用意してないから、明日お前を送っていった後に一度家に戻る。
用意が出来たら当分ここにいる」
「…いいのか?」
「いい。どうせ暇だ」
手塚の言葉を聞き終わった乾は、ゆっくりと笑顔に変わった。
「めちゃめちゃ、嬉しい」
「別にたいしたことは出来ないぞ」
「ものすごく、たいしたことだと思う」
あまりに素直に乾が喜んだ顔をするのが逆に切ない気がした。
お前が俺にくれたものの方がはるかに多いのに、と。
これぐらいのことで、そんなに嬉しそうな顔を見せて欲しくなかった。
「…捻挫してよかったって言ったら怒る?」
「当たり前だ」
そんな疲れた顔をしてるくせに、俺を見て笑うな。
手塚は一度目を反らす。
「このソファは低いから、立ったり座ったりが大変だろう。ベッドで休んだ方がいいんじゃないか」
「そう言われれば、そうだな」
「それに、少し眠った方がいい」
「手塚が来てるのに?」
こんなときでもからかうような口調で言うのが乾らしい。
「いいから大人しく言うことを聞け」
ここにつかまれと手を差し出すと、案外素直に乾はそれに応じた。
手塚の肩に手をかけ、乾はゆっくりと立ち上がる。
「大丈夫か?」
「平気、平気」
バランスをとりながら左の肩で支えようとすると、乾が遠慮しているのが感じでわかった。
こんな場面でもこの男は自分を気遣っているのだ。
「遠慮しないで体重を預けろ」
「うん。ありがとう」
ようやくまともに体重がかかる。
転ばないように足に負担がかからないようにと、注意しながらベッドルームまで歩いていく。
「ああ、いいな。手塚だと」
「なんだ?」
「背が近いから歩きやすいよ。会社で大変だった。支えてもらおうにも、皆小さくてさ」
耳の近くで乾がくすくすと笑う。
「…手塚は身長は俺を越せなかったな」
「突き飛ばすぞ」
「あ、ごめん。もう言わない」
憎まれ口を叩く男をベッドまで連れて行き、そこに寝かせてやる。
乾は小さな声で一度だけ痛いと洩らした。
「面倒かけて悪いな」
「気にするな」
自分で毛布をかけ寝ようとする乾の肩に手を置いた。
何?と言いたそうな目が手塚に向けられる。
いくつかの小さな傷のある顔。
うっすらと青い血管の浮く疲れた顔。
その顔に少しだけ近づき、言った。
「乾」
「ん?」
「今度何かあったら、迷わずにすぐ俺を呼べ」
今日、ここに俺がいるのはただの偶然だ。
もし俺が来なかったら、きっと乾は傷だらけの疲れた顔のまま
1人で朝を迎え、また出て行った。
そんなのは嫌だ。
そう言いたかった。
唐突に乾の腕が手塚を力いっぱい引き寄せた。
バランスを崩して、乾の上に身体が倒れこむ。
「…危ないぞ、乾!」
本気で怒ろうとすると、乾の両腕が手塚を強く抱きしめた。
身体を起こそうとしてもがっちりとつかまえられて、身動きができない。
胸の下の乾は力を緩めずにいる。
「な…んだ?」
苦しさに抗議すると乾が小さくすっと笑ったのがわかった。
「今、惚れ直してるところ」
「何を言ってる」
「今の台詞で、俺やられたよ」
乾の腕はまだ力を抜かない。
ぬけぬけとふざけたことを言う男だ、と今更のように思った。
「嘘をつくな」
「ほんとだって。即死した」
「馬鹿か、お前」
「多分…ね」
片方の腕が移動し、手塚の髪の中に差し込まれる。
その分少し力が緩み、手塚は少しだけ自由を取り戻す。
自分の下にある乾の顔は、穏やかに笑っていた。
お前ほど俺は役には立たないかもしれないけれど。
それでも、こんなときくらい弱いところを見せてくれてもいいだろう。
だから。
「少しは、俺に頼れ」
「うん」
乾は頷いてから、また手塚を抱きしめた。
確かに自分を抱くこの腕も
広く暖かいこの胸も
いつでも心地よく自分を包んでくれる。
だが、同じ心地よさを自分も乾に返してやりたい。
「ありがとう。しばらく、面倒かけるけど頼む」
「ああ」
きっと、乾は分かってそう言ってる。
俺が望んでいるから、わざと「頼む」という言葉を使って。
それでもいい。
少しでも、乾に何かを返せるなら。
顔を見られるのが少し恥ずかしくて、しばらくそのまま抱かれていると、
着ているシャツの下の素肌に何かが触れた。
なんだ?と思った次の瞬間に分かった。
乾の手が背中を撫でていた。
「…乾、お前何やってるんだ」
「あれ?やらないの?」
「誰が怪我人とやるか!」
こんなときに何を言い出すのか、この馬鹿は。
勢いをつけて身体を起こすと、思い切りニヤニヤしてる乾と目があった。
「せっかく手塚がしばらくいてくれるのに?」
「足が腫れたやつとなんかやらないぞ」
睨みつけても、一向に気にする様子がない。
とことん、この男は馬鹿なのだ。
「だって、腫れが引いたら手塚は帰るんじゃないのか?」
「当たり前だ」
つかまれている腕を振り払いながら答えると、不意に乾は真顔に戻った。
冷たく言い過ぎただろうかと、少し後悔すると乾は真剣な表情で言った。
「大丈夫だ、手塚。足に負担のかからない体位ならいくらでもある」
「…乾」
「はい?」
「その足、踏むぞ」
片膝を乾のベッドの端に掛けると、乾はゲラゲラと笑う。
「ごめん、嘘。もう言わないから止めて」
「いい加減に寝ろ、この大馬鹿野郎!」
とりあえず踏むのは勘弁してやると、足を下ろすと乾はまだ笑っていた。
「馬鹿とは言われなれてるけど、大馬鹿と来たか」
「それでもまだ足りないくらいだ」
「ひどいなあ」
乾はクスクスと笑い続けながら毛布を掛けなおしている。
わざと手伝わずに立ち上がると、乾はこちらを見上げて言った。
「少し寝るよ。その間に帰らないでくれよ」
眼鏡を外した乾の目に、ほんの少し浮かんだ甘えるような色があった。
「わかった」
頷くと、乾は安心したように目を閉じた。
ベッドルームのドアを閉めて、手塚はキッチンへと歩いていく。
あの馬鹿が寝てる間に、何を作ろうか。
栄養価が高くて、身体が温まる、美味しいものを。
きっとあの世界一の大馬鹿野郎は大袈裟に喜んで、それを残さず食べてくれるだろう。
2004.3.12
脚立から落ちたのは私です。洗濯物干してて落ちました。正確には「椅子」だったんですけど。お尻を強打しました。でも無傷でした。実際に落ちたのは一度ですが、落ちそうになったことは何度もあります。洗濯物干してるとよく目が回るのです。貧血だから?
タイトルは「LOVE PSYCHEDELICO」の曲から。かっこいい手塚を書こうとしたら阿呆な二人になりました。おかしいなあ…。
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