■HORIZON
なるべく音を立てないように、注意深く寝室のドアを開けた。
目の前に広がる暗がりに、手塚は一歩足を踏み出した。

裸足のままリビングを横切り冷蔵庫を開けると、
暗い部屋のそこだけが明るく照らされた。
寝室のドアは閉めてきたから、このせいで乾を起こしてしまうことはないだろう。

手塚は500mlのミネラルウオーターのペットボトルを取り出すと、
グラスには空けず、直接そのまま口をつけた。
冷たい水が喉を滑り落ち、熱が燻ったままの身体を内側から冷やしていく。
一口飲んでから息を吐き、もう一度喉に流し込む。

眼鏡は寝室に置いてきてしまったが、
暗闇に赤く光るビデオデッキの液晶はかろうじて読むことが出来た。

午前3時15分。

以前は、こんな時間に起きていることなどほとんどなかったが、
最近は当たり前のように見慣れた時間だ。

半分ほど水の残ったペットボトルを冷蔵庫に戻すと、手塚はまた寝室へと戻る。
おそらく空が白むまで、眠れないことはわかっていたが。


さっきと同じように、乾を起こさないように気をつけながらドアを開けると、
真っ暗だったはずの部屋に、薄い灯りがついていた。
既に乾は上半身を起こしていて、照度を調節できるスタンドが
暖かそうなオレンジ色に部屋を染めていた。

「眠れないのか?」
眼鏡のない目を少し細めて乾は言った。

「起こしてしまったか。済まない」
「いや、いいんだ」
手塚がベッドの端に腰を下ろすと、
乾が手を伸ばし髪の中に指を差し入れてきた。

「眠れないのか?」
ひどく優しい声で、もう一度乾は同じ言葉を繰り返した。

「喉が渇いて目が覚めただけだ」
すぐばれる嘘だとは思ったが、どうせ何を言っても乾には通用しない。
案の定、乾は髪を触る手を頬へと滑らせ大きな掌で顔を包み込んで言った。

「最近、あまり寝てないだろう」
手塚は黙ったままで、目を伏せた。
この目に見られていたままでは、言わなくてもいいことまで言ってしまいそうで。


乾が捻挫をしたときに、一週間ほど泊り込んだのをきっかけに
手塚は乾の部屋に泊まりに来る回数が増えた。
それ以前は、せいぜい週末くらいだったのが、
最近では週の半分以上をこの部屋で過ごすようになった。

一緒にいられるものなら、そうしたい。
そういう思いが大半であることは確かだが、本当はここにいる理由はそれだけではなかった。

「手塚が…最近苦しそうなのは気づいてたよ」
手塚の顔を包んでいた手が、優しく頬を撫でる。

見抜かれているだろうとは思っていた。
明らかにいつもの自分らしくないことをしている自覚もあった。
自分の何倍も察しのいい乾がそれに気づかないはずがない。

中々自分の家に戻ろうとはせず、
昨日の夜には自分から強請るように乾に抱かれるような真似さえしたのだから。

「無理に言わなくていい」
でもね、と乾の両手が肩を抱く。
「手塚が辛そうにしてるのを見るのは、俺も辛い」

乾は冷えた空気から手塚を守るように背中から抱きしめた。
パジャマ越しに伝わる体温は、柔らかく手塚を覆っていく。

「俺に出来ることは無いか?」
言い聞かせるような響きではなく、いつもと変わりない冷静な口調で言うその言葉が却って胸の中に染み込んでくる。

「…落ち着かないんだ」
やっとの思いで開いた手塚の唇から掠れた声が出た。

プロの選手を引退してもう少しで半年になる。
最初の2、3ヶ月はその後始末でテニスを止めたことを惜しむ間も無く、
あっという間に過ぎてしまった。
それからようやく自分のペースをを取り戻して、
少しずつ新しい生活に慣れてきた、と思い始めていた。
いや、そのつもりだった。
16歳でプロ入りし、約10年を費やした選手生活はそうは簡単に自分を開放してはくれなかった。

一年間のスケジュールはきっちりと決められ、
食事をするのも、休養をとるのも、何から何までが試合のため。
生活の全ては試合を勝ち抜くためにコントロールされる。
それが当たり前だった。

オンもオフもなく、常に頭からはテニスのことが離れない。
それなくして過酷なトーナメントを勝ち抜くことなど不可能だ。

そんな日々に終止符を打ったのは自分自身。
それを後悔しているわけではない。
実際、日本に戻り、全てを片付けて
新たなスタートを切ったときは清々しい思いで一杯だった。

それなのに。
いつしか穏やかな時間を過ごすことに、苛ついている自分に気づいた。

感覚を研ぎ澄まし、集中力を極限まで高め自分をギリギリまで追い詰める。
それを必要としない生活は、いいようのない焦燥を呼び起こした。
決して、あの日々に戻りたいわけではないのに。

「慣れないんだ。こういう…生活に」
「そうだろうな。わかるって言うのは不遜だけど、想像は出来るよ」
乾が慎重に言葉を選んでいるのがわかる。
そんな風に気を使われることが、少し辛かった。

「家にいると、母が心配して余計に息苦しい」
父や祖父は今の自分の状態をある程度察してくれているようで、
あえて何も言わずにいてくれる。
だが、母親という立場はまた少し違うのだと思う。

出来ることなら心配をかけたくはない。
そう思うと尚更、それが態度に出る。
お互いが余計に気を回して、更に身動きが出来なくなる。
それが堪らなかった。

「俺はここを逃げ場所にしている」

情けない、と思う。
ずっと1人で歩いてきたはずなのに、暖かい手を差し伸べられることを覚えてしまえばこうして容易くその手に支えられようとする。
そんな自分が恥ずかしかった。

「逃げてなんかいないよ」
予想通りの、優しい声。

「いや、逃げているんだ。俺は」
「時間がかかるのは、仕方ないさ。それだけ、厳しい世界に手塚は居たんだから」

俺が言えた立場じゃないが、と前置きして乾は先を続けた。
「迷うことと逃げることは違うだろう。少なくともお前は先に進もうとしてるんだから」

――先に、進む。
心の中で繰り返す。

「人間、そう簡単には切り替わらない。答えがあることばかりでもない」
手塚は不器用だしね、と乾は少しだけ笑う。

「嘘っぽく聞こえるかもしれないが、時間が解決することだってある。だから手塚は好きなだけ迷えばいい」
さわ、と乾の前髪が右の頬に触れた。

「迷っていいんだ。止まってもいいんだ」
後ろから自分を抱く腕に、力が加わる。

「それが、どうしても辛かったら俺に分けてくれ。一緒に迷おう」

静かな声に、手塚は頷く事も出来なかった。
今そうしたら、どこまでもこの男に全てを任せてしまいそうで。
だが、結果はもう見えているのだ。
背中から回された大きな手の上に、自分の掌を置いてしまった瞬間から。

「お前には…情けないところばかり見せているな」
「そんなことはないよ」
「いや、幾つになっても弱いところばかり見せていて恥ずかしい」
「そうかな。少なくともそうやって自分が弱いって言えるだけ、今の手塚は強いと思うけどね」

触れた背中から乾の鼓動が響き、重ねた手から体温が伝わる。

暖かい。
柔らかい。
力強い。

どれも確かに、この胸の奥まで届くものばかり。
乾が自分に向けるものは全て。

乾の与えてくれたものが自分の中に少しずつ、だが確実に内側に蓄積していくのを感じながら手塚は目を伏せた。

「乾。俺を、あまり甘やかすな」
「…俺の楽しみを奪う気か?」
乾は静かに笑う。

「…付け上がるぞ」
「本望だね」
と更に笑うと、頬に小さく息がかかった。

手塚は身体を包んでいた乾の腕をそっと外し、
ゆっくりと振り向いた。
「ありがとう。今日は、ちゃんと眠れそうだ」

目が合った乾は、わずかに唇の端を上げていた。
「そう?…俺は、すぐには眠れそうにないな」

話をしているうちに、完全に目が冷めてしまったのか。
明日も仕事があるのに。
悪いことをしてしまったと、手塚は謝った。

「目が冴えてしまったか。済まなかった。」
「いや、そういうことじゃなくて」

次の瞬間に乾の右手が伸びてきて、
驚く間も無く唇を塞がれていた。

「やりたくなった」

さらりとそう言ってのけて、手塚のボタンを外し始めた男に
どう返事をするべきか。
半ば呆れた手塚が答えを出す前に、すでに返事をすることは不可能になっていた。


息も出来ないような深いキスを、乾がもう一度手塚に送っていたから。
2004.4.11
「1週間」の少し後のお話。
最後までシリアスを通すことが出来ませんでした。だって恥ずかしいんだもん。
手塚が乾の優しさに感動してるってーのに、乾は「やりたいなあ」って考えてたとしたら、すっごく可愛くないですか?私はそんな乾が好きだよ。

タイトルは「地平線」でも「水平線」でもどっちでもいいです。新しい夜明けがイメージできれば。