■普通の一日
今年の手塚の誕生日は平日だった。

休みを取って旅行に行こうかと誘ったら、手塚は首を縦に振らなかった。
じゃあ外に食事でもと言っても、やっぱり「止めておく」と言う。
何がしたいのかと聞くと、「特に何も」と答える。

手塚はいつも通りに普通に過ごしたいと、落ち着いた声でそう言った。

それが少し物足りなくて、「何か欲しい物はない?」と聞くと「何もいらない」と言う。
「頼むから何か贈らせてくれ」と頼んだ。
そうしたら、手塚はちょっとだけ黙り込んだ後で「欲しいものが一つある」と呟いた。


そんなものでいいのかと、俺は答えた。


後から手塚が笑いながら教えてくれたのだけれど、そのときの俺はものすごく困った顔をしていたらしい。







午後7時を30分ほど過ぎた頃、乾は手塚の待つ部屋に着いた。
手にはいつも会社に持っていく黒い革の鞄の他に、ずしりと重たい荷物が一つ。
インターフォンを鳴らし、待っているとドアが開いた。
「只今」
「お帰り」
全く普段通りのやりとりだ。
手塚への「おめでとう」は朝一番に伝えてあるので、この場では乾は何も言わない。

「思ったよりも早かったな」
そう言う手塚の表情は矢張りいつも通り。
整った顔は素っ気無く無表情だ。
「うん。ほとんど定時だたからね」
乾はネクタイを緩めながらリビングに入り、持っていた荷物を床に下ろした。
紙袋の持ち手が食い込んでいた指は、すぐには感覚が戻らない。

「手塚、今から食事に出かけないか?予約なくても入れる店は沢山あるよ」
「いや、もう食事も殆ど出来ているんだ。気持ちだけ貰っておく」
言われてみれば、キッチンからはかすかにいい匂いがする。
それでもまだ諦めきれず、乾は着替えをせずに手塚の反応を見ていた。
「どうしても?」
「乾。俺は別に遠慮しているわけではない。家でゆっくり過ごしたいというのが正直な気持ちなんだ」

そこまで言われたら乾も引き下がるしかない。
今日は手塚の誕生日なのだから、手塚の好きにさせてやることが一番大事だ。
「わかったよ。着替えてくる」
乾が笑いながら言うと、手塚もほっとしたように表情を和らげた。
「コーヒーでもいれる」
「うん。ありがとう」と乾が自分の部屋に入ろうとすると、手塚が乾を呼び止めた。

「乾」
「ん?」
「わがままを言って、悪いな」
「もっと言って欲しいくらいだから、気にしなくていいよ」
乾がにやりとしながら答えると、手塚もふっと小さく笑っていた。



手塚が日本に戻ってきたのが去年の9月だから、もう1年が過ぎたことになる。
あっという間の1年だったと、乾は改めて思う。
手塚は二度と自分の元に戻ることはないはずだったのに。
それが、今では殆ど毎日を共に過ごしていることの不思議さに、今更のように驚く。
だけど、手塚と二人で過ごす日々は、今の二人にとっての一番自然な形だと信じることも出来る。

手塚が戻ってきた二度目の誕生日をどう過ごそうか。
乾はずいぶん前から、それを考えていた。
去年の手塚の誕生日は、二人切りで過ごすことは出来なかった。
電話で伝えた「おめでとう」の言葉を、手塚がどんな顔で聞いてくれたのか。
それを見られないことが、とても残念で。

その分、今年の10月7日は手塚の喜ぶ顔をたっぷり見たい。
手塚はあまり物を欲しがらないから自分の誕生日の時のように、どこかに旅行するのもいい。
それが無理なら、せめて少しでも日常では味わえない特別な時間を手塚に贈りたい。
そう思っていたのだが。

手塚はそんなものを望んだりはしなかった。
手塚が望んだものは、いつもと変わらない「普通の時間」。
退屈かもしれないけれど、穏やかで静かな一日が欲しいと手塚は言った。

そして、もう一つだけ。
手塚が欲しいと言ったものがある。



乾は着替えを済ますと、手塚の為に持ってきた「贈り物」を手にリビングへと戻った。
部屋の中にはいれたてのコーヒーのいい香りが広がっていた。
手塚はもう椅子に座っていて、乾が来るのを待っていたようだった。
「ケーキでも買ってくるんだったかな」
乾が座りながらそう言うと、「ケーキならあるぞ」と手塚が苦笑していた。

「手塚が買ったのか?」
「まさか。…今日の昼間一度家に戻ったんだ。そうしたら無理矢理母に持たされた」
「ああ、なるほどね」
「あまり好きじゃないんだがな」
困った顔をしながらも、それを断りきれなかったところが手塚らしい。

「食べるなら出すぞ?」
「少し貰おうかな」
と乾が言うと、手塚は冷蔵庫の中から件のケーキを取り出した。
それは洋酒の効いたドライフルーツ入りのパウンドケーキで、普段ケーキなんか滅多に食べない乾でも美味しいと思えるものだった。

「他にも色々持たされたから、今日の夕食はそれだ」
「へえ。何?」
「栗御飯とお吸い物と、まあ色々だ」
「ありがたく頂くよ。よろしく伝えておいて」
乾の言葉に頷く手塚は、少し照れくさそうな顔をしていた。


ケーキを食べ終えるのを見計らって、乾はずっと足元に置きっぱなしになっていたものを持ち上げた。
「手塚、約束通り持ってきたよ」
「本当に持ってきたのか?」
手塚は持っていたカップを置いた。
珍しく、目が楽しそうに輝いている。

「そりゃ約束だからね」
乾は紙袋をガサガサ言わせながら中味を取り出した。
「でも、本当にこんなものでいいのか?」
「ああ」
短く応える手塚に、乾は数冊のアルバムを手渡した。
それは今日仕事を追えた後に自宅に戻って探してきた物だ。
表紙が少し色褪せ、角が擦り切れているのが、アルバムがそう新しいものでないことを語っている。

「一応見つけたのはこの三冊」
「ありがとう。…今見ていいか?」
「うん。まあ…いいけど」
語尾を濁らせると、手塚はアルバムを抱えてくすりと笑った。

「一緒に見るぞ。ほらソファに移動だ」
「手塚。いつからそんな意地が悪くなったんだ」
「今朝からだ。いいから早く行け」
渋々言われた通りにソファに腰をおろすと、アルバムを持ったままの手塚が隣りに座る。
そして手にした三冊の表紙を見比べて、一番古い日付のものを最初の開いた。

「これ、お前か?」
「当たり前だろう。俺のアルバムなんだから」
手塚の開いたページには生まれたばかりの赤ん坊の写真が並んでいる。
勿論それが乾自身であることは、本人が一番良くわかっている。

小刻みに手塚の肩が揺れ始めた。
「いいよ。我慢しないで笑ってくれ」
手塚は遠慮するのをやめたのか、軽く握った手を口許に持っていき、くつくつと笑い出した。

「…何がそんなにおかしいのかなあ…」
「なんでだろうな。…でもおかしいんだ」
手塚はアルバムの中の小さな乾と、自分の隣りに座る乾を見比べてまた笑い出した。
「今じゃ、信じられないくらい小さいな」
「俺は標準より小さかったらしいよ」
未熟児というほどではないが、生まれたときはかなり小さい赤ん坊だったと乾は親から聞かされていた。

「ああ、実は俺もそうだったみたいだ」
手塚はまだおかしそうに目を細めてアルバムを捲る。
「…お前にも赤ん坊だった時代があるってことがすでに笑えるな」
「どういう意味だよ」
「赤ん坊でも、ちゃんと…お前だってわかるのが面白い」
「近所でも評判の可愛い子だったんだけど?」
「つまらない冗談は聞かなかったことにしておいてやる」
よっぽど機嫌がいいのか、ツッコミが返ってくるのもいつもより早いようだ。

アルバムには、生まれたての赤ん坊から徐々に乾が成長していく様子を律儀に記録してあった。
手塚は声を上げて笑ったり、指差して写真の説明を求めたりしながら、丹念にページをめくっていった。
手塚がこんな顔をするのは本当に珍しい。
目も口許も楽しげに綻んでいて、声までがいつもより明るく聞こえる。
たかが子供の頃の写真ひとつで、こんな手塚が見られるなら多少の恥ずかしさは我慢できる。
手塚が何を思って自分の古い写真を見たいと言い出したのかはわからないけれど。


手塚は一通りアルバムを眺め、隣りに座る乾の顔をじっと見つめた。
そして、中の一冊を手にとりパラパラとページを捲り、一枚の写真を指で示した。
「これを貰っていいか?」
「…いいよ」

それが手塚との約束だ。

乾の古いアルバムを見たいと、手塚は言った。
そして、その中から一枚だけ自分に譲ってくれというのが手塚の希望だった。

今手塚が選んだ写真を、乾は隣りから覗き込んだ。
それは10歳くらいの自分が泣いている写真だった。

着ている物はテニスウェア。
右手にはラケットを握ったままで、空いた左の拳で頬を伝う涙を拭っている。
その様子はいかにも悔しげで。

乾はその写真のことをよく憶えていた。
あるジュニアの大会の決勝で負けたときのものだ。
その頃はまだダブルスをやっていて、絶対優勝できるという自信があったのに。
懐かしく、ほんの少し苦い思い出が蘇ってくる。

「本当にこれがいいのか?」
そう確かめると、手塚はそれまでのからかうようなものとは違う種類の笑顔を乾に向けた。
「ああ。…とてもいい写真だ」

乾はアルバムからその写真を剥がすと、手塚に手渡した。
「はい。俺からのプレゼント」
「ありがとう。大切にする」
手塚は手にした写真を見て、静かな声で言った。
「俺にも同じような時があったな」
「じゃあ、来年の俺の誕生日には手塚のアルバムを見せて貰おうかな」
「駄目だ。人の真似をするような野暮はやめろ」
と冷たく切り返された。

「手厳しいね」
乾は笑いながら、手塚の肩に手を回して自分の方に引き寄せた。
そして、自分の写真を視線で示してから言った。
「俺はこの頃はもう手塚のことを知ってたよ」
「…そうなのか?」
「うん。手塚はすでに有名だったからね」
そして、手塚は俺のことなんか全く知りはしなかっただるう。
いつも手塚は先頭を走っていたのだから。

手塚はそんな存在だったのに。

「まさか十数年後にこうなるとは思わなかったな」
乾は手塚の項に自分の指を這わせてから、目を閉じてそっと唇を重ねると「ん」と少しくぐもる声が聞こえた。
そして手塚の両腕がゆっくりと自分の背中に回されるのがわかった。
撫でるように動く掌の感触がとても心地よかった。




――君は大人になったら、もっとすごいものを手にいれられるよ

印画紙の中で悔し泣きをする自分に会えるものなら、そう言ってやりたい。
布越しに伝わる確かな体温を感じながら、乾はこっそりと笑っていた。
2004.1017
オフリミ誕生日話。タイトルが決まらなくて困りました。

本当は全然違う話を書く予定でした。でも少し前にやったチャットで、赤ん坊乾の話が出たんですねー。手塚が赤ん坊乾を自分好みに育てるとか、赤ん坊乾をだっこしてみたいとか(笑)。それでふと、大人手塚と子供乾という図が浮かんだんです。でもそれじゃあ恋愛にならないしなあってんで、こういう話を思いついたんです。乾の赤ちゃん時代の写真を見て、微笑ましい気持ちになってる手塚ってかわいくない?駄目?

書くつもりだった話はまた別の形で書き直そうと思います。