■Specific medicine1
その日は目が覚めた瞬間から何か違和感があった。
隣りにいるはずの人の気配はなく、首を捻って時計を見ると自分がいつも起きる時間を少し過ぎていた。
手塚がまだだるい身体をゆっくりと起こすと、脱いだ覚えはあっても着た覚えのないパジャマを着ていた。
こんなことはよくあることだが、土曜日だというのに乾が自分より早く起きたことのほうが珍しい。いつもなら自分が先に目を覚まし、休みの日だけは乾を好きなだけ眠らせておくのが常なのに。
たまにはこんなこともあるのかもしれないと勝手に納得してベッドから出ると、なんとなく肌寒い気がした。何か羽織るものでもないかと部屋を見回すと、乾の前開きのパーカーが椅子の背に掛けられたままになっていた。
勝手にそれをパジャマの上に着込んで部屋を出た。
「おはよう」
ドアを開けた途端に声を掛けられた。
「おはよう」
乾はダイニングテーブルに座り朝刊を読んでいたところだったらしい。
手にしていた新聞を畳むと、脇に置いた。
「珍しいね。俺よりあとに起きてくるの」
「珍しいのはお前の方だろう」
「まあ、そうだね」
乾は愛用のコーヒーカップを持ち上げると、「飲むか?」と目で聞いてきた。
「頼む」と答えて手塚も椅子に腰をおろし、服を勝手に借りたことを伝えた。
「それはいいけど、寒いのか?」
「少しな」
「手塚、風邪でも引いたんじゃないか。今日はかなり暖かいよ」
言われてみれば乾は半袖のTシャツを着ていた。
確かにそろそろ初夏ともいえる季節にこんな格好をしている自分の方がおかしいのだろう。
「ちょっと顔色、悪いな。大丈夫か?」
目が覚めたとき疲れがとれていないような気はしたけれど、心配されるほどのことはない。
「大丈夫だ」と答えると、乾は「失礼」と言って手を伸ばしてきた。
そして、大きい掌が手塚の頬に触れた。
「ん?」
今度は立ち上がり隣りに来ると、額に手を置いた。
「やっぱり熱っぽいな」
「お前の気のせいだろう。別になんでもない」
「いや、絶対熱がある。ちょっと待って」
乾は救急箱の中から体温計を取り出すと、手塚に渡す。
「計ってみて」
必要ないと思ったが、乾のことだ。計るまでは納得しないだろうとそれを受け取った。
小さな電子音を合図に体温計を脇から外すと、手塚が確認する前に乾に取り上げられた。
「あ、やっぱりあるよ。37度2分だって」
「微熱だ」
「微熱じゃないよ。手塚は普段の体温が低いんだから」
乾は体温計を片付けながら言った。
「朝食食べたらベッドに戻ること」
「大袈裟だ」
「本格的に引く前に治した方がいい」
正論なので、返す言葉がない。
「朝食は何がいい?おかゆ?」
「普通でいい」と答えると乾はなぜか残念そうな顔をしていた。
朝食を済ませると、手塚は早々にベッドに押し込まれた。
市販の風邪薬を飲まされ大人しく横になると、乾は着替えを始めた。
「買い物に行って来る。何か欲しいものはないか?」
「いや、別にない」
「ほら、桃缶とか、バニラのアイスクリームとか、アクエリアスとかさ。風邪を引いたらこれがなきゃっていうのない?」
なぜか乾はニコニコと笑っている。
思わず「…お前、楽しそうだな」というと、更ににっこりと目を細める。
「わかる?俺ね、風邪引いてる奴を構うの好きなんだ。思う存分甘やかせるだろう?」
「なるほどな」
乾らしい返事に呆れていると、
「じゃあ、俺が適当に選んでくるから。何かあったら呼んでくれ」
と枕もとに手塚の携帯電話を置いた。
「ちょっとでも気分が悪くなったりしたら我慢しないで電話して」
「わかった」
「注文していた本を取りに行くから少し遅くなるかもしれないけど、なるべく早く戻る」
「気にするな。ゆっくりして来い」
「行って来る」
乾の後姿を見送って目を閉じると今頃になってようやく身体が熱いような気がしてきたが、薬が効いたらしくすぐに眠りに落ちていった。
何かが身体に重くまとわりつく。
熱くて、鬱陶しくて、息苦しかった。
冷たい空気が肺に欲しくて、なんとか息を吸い込もうとするけれど気管が半分塞がったみたいに、上手く呼吸できない。
それでも必死で息をしようとしたら、激しく咳き込んだ。
それで目が覚めた。
反射的に探す。
だが、部屋の中には誰もいなかった。
どうしてひとりなのか一瞬理解できなかったが、乾は出かけていたことを思い出した。
身体はひどく重たくて、関節が軋むように痛んだ。
何より辛いのは、喉が腫れているらしく上手く息をできないことだ。
苦しくて苦しくて仕方なかった。
乾はまだ帰らないのだろうか。
時間を確かめようと身体を捻ると、また激しく咳き込んだ。
乾、と口に出しそうになったときドアが開いた。
「大丈夫か?」
心配そうな顔をした乾が立っていた。
返事をしたくても咳が止まらない。
乾は手塚の傍に来ると手塚の顔を覗き込んで、もう一度「大丈夫か」と聞いた。
苦しかったけれど、頷いた。
乾がいてくれるなら大丈夫だと思ったから。
乾は「ちょっとごめん」と手塚の頭を持ち上げると、いつのまにそこにあったのか温くなったアイスバッグを良く冷えた物と取り替え、そっとまたその上に横たわらせてくれる。
心地いい冷たさに、ほっと息を吐いた。
「帰って、たのか」
額にも冷たいタオルがのせられる。
「うん。びっくりしたよ。買い物から帰ってきたら手塚がすごい熱出して苦しそうにしてるからさ」
乾の言葉に驚いた。乾がいつ戻ってきたのかも全く気づかなかった。
「38度7分あった」
「そうか」
そんなに熱を出したのは久しぶりだ。寝苦しいのも納得がいく。
「パジャマ取り替えよう。すごい汗だ」
乾は汗を吸って湿ったパジャマのボタンを外し、乾いたタオルで手塚の身体を拭く。
「ついでにもう一度、熱測ろう」
そういって手塚の脇に体温計を挟むと、新しいパジャマを用意する。
その手際の良さに熱で半分ぼうっとしながらも感心した。
ピッという電子音がして、乾がそれを確認すると顔が曇った。
「また上がった。39度越えたよ。総合感冒薬じゃだめだな」
本気で心配しているのがその顔でわかる。
そんな表情をさせしまうことを申し訳なく思った。
自分では殆ど動かせない身体を支えてもらい、洗濯したてのパジャマを着せられると汗で不快だった身体が少し楽になった気がした。
「手塚、病院行ったほうがいいんじゃないか」
「いや、いい」
本当はそのほうがいいのかもしれないが、正直動くのが辛い。
「じゃあ、一度解熱剤で熱を下げよう。それで下がらなかったら病院に連れて行く。いい?」
「わかった」
涸れた声で返事をすると、乾はそっと手塚の髪を撫でた。
「ごめん。俺がもうちょっと気を使えばよかった。朝、甘く見たのが悪かった」
「お前が、謝ることじゃ、ない」
乾は黙って微笑んでから、ゆっくりと立ち上がった。
「薬飲む前に何か胃に入れたほうがいい。食欲ないとは思うけど、一応作ってあるから食べてみて」
一度頷いてからありがとうと言うと乾は静かに笑った。
その顔を見ると、少し泣きたくなった。
そんなことを思うのは、高い熱のせいかも知れないが。
「ミネストローネなんだけど、食べられそう?」
身体を起こされ、背中には大きいクッションが置かれている。
「多分、食べられる」
「俺、食べさせてやろうか?」
からかうような口調ではあるが、いつものような意地の悪い響きはない。
「自分で食べる」
と言うと、気をつけてとお盆ごと渡されそれを膝に置く。
スプーンを手にとり、口に運ぶとトマトの酸味が美味しかった。
「味わかるか?」
「美味い」
「そっか。良かった。残していいから、無理しないで食べてくれ」
普段から乾の声を聞くのは好きだった。
艶のある低い声は、聞いているだけで気持ちが落ち着く。
今もそうだ。
乾が自分に語りかけるだけで、とても安心する。
熱に膿んだ身体がほんの少しずつでも軽くなっていくようにさえ思えた。
乾がよそってくれた分は殆ど食べることが出来て、それを見た乾は嬉しそうだった。
解熱剤を受け取り冷たい水で飲み下すと、乾の手を借りてまた横たわった。
「そう…いえば、今何時なんだ」
しばらく身体を起こしていたからか、少し息が切れた。
「3時近いよ」
「お前は…何時に帰ってきたんだ」
「11時前には帰ってきた」
「ずっと、ここにいたのか」
「うん」
きっと乾のことだ。
自分から目を離さずに、ここでずっと心配してくれていたんだろう。
申し訳ないと思いながら、それがたまらなく嬉しい。
そんな自分を知られるのが恥ずかしくて、手塚は目を伏せた。
「眠くなった?薬効いてきたかな」
「そう、みたいだ」
自分が眠るまでここにいてくれと言いたかったが、その言葉は飲み込んだ。
幼い子供のようなわがままを口にするのは躊躇われたから。
「俺、ここにいていいかな。寝るのに邪魔か?」
「邪魔、じゃない」
一番聞きたい言葉を、一番必要な時に言ってくれる。
乾は昔からそういう奴だったのに。
忘れていた自分を笑い、手塚は呼吸が楽になるのを感じながら眠りについた。
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