■OFF LIMITS
※乾・手塚ともに大人設定です。「結婚」という言葉が出てきますので、ご注意。
雑踏を避けるように、丸い柱にもたれた。
行き交う人の髪の色を見て、ここは日本なのだなと当たり前のことを思った。
戻ってきたのだ。
あの男のいる街へ。
手塚はもうすぐここへ来る男の顔を思い出しながら、静かに息を吐いた。
腕を組み、目を閉じる。
時間が巻き戻されていく感覚は、今は少し苦しかった。
「待った?」
覚えのある、というより忘れようのない声にゆっくり目を開く。
カチリ、と止まっていた何かにスイッチが入った。
そんな気がした。
何時の間に改札を抜けてきたのか。
だが、待ち合わせをしたときにはいつも乾が先に自分を見つけた。
きっと今日も乾が自分を見つけるだろうと、手塚は思っていた。
「久しぶり」
笑う乾は、眼鏡のフレームと前髪が少し違うだけで、自分が記憶しているままの顔をしていた。
「変わらないな、お前」
「手塚のほうこそ、全然変わらない。ちょっと髪が短くなったくらいか?」
乾は会社から真っ直ぐ来たらしく、黒に近いグレーのスーツを着ていた。
スーツ姿を見るのは初めてではないから、特別に違和感を感じることもない。
「食事する時間くらいあるよね?話はそこでしよう。いい?」
「ああ」
歩き出した乾の後をついていく。
広い背中を見ながら歩く、この距離感が懐かしい。
「俺が良く行くイタリアンの店だけど、それでいいかな?」
「構わない」
歩く速度を緩めた乾と肩が並ぶと、煙草の匂いがした。
多分それが顔に出たのだろう。
「どうかしたか?」
と乾に聞かれた。
「煙草の匂いがする」
「ああ、悪い。今日は午後から会議室に篭もってたんだ。ああいう時って皆、ものすごく吸うから。ごめん、ちゃんと消臭してくれば良かった」
「いや、平気だ。気にしなくていい」
「手塚、煙草嫌いだったよね」
「ああ。お前は今は吸わないのか?」
「たまに吸うよ。会社じゃ滅多に吸わないけど」
自分が知っていた頃の乾は、ごくごくたまに煙草を吸っていた。
煙草が嫌いな手塚を気遣って、滅多に自分の前では吸わなかったけれど、本当はあの長い指が煙草を挟んでいるところを見るのは嫌いではなかった。
それを乾自身に伝えたことはあっただろうか。
そんなことも今は覚えていないが。
「ここだよ」
10分ほど歩いて、乾の行きつけの店に入った。
がやがやと賑やかな人の声がする。
あまり明るくない店内の石の壁いっぱいに天使の絵が描いてある。乾は馴れた足取りで奥へ進むと、そこだけ仕切りのある席へと手塚を呼んだ。
「予約してあったのか?」
「うん。人気のある店だから」
乾はスーツの上を脱いでハンガーにかけた。
「ここは値段の割に美味くて量がある。体育会系向きだね」
手塚の上着も受取り、一緒に掛けた。こういう気の使い方は昔のままだ。
「この席なら、人に聞かれることないから。気兼ねしないで馬鹿話が出来るよ」
ここでどんな話を二人でするのか。
共有しなかった時間を、取り戻すことなどできはしないし、したくも無い。
それを思うと、少しだけ息が苦しかった。
乾がオーダーした赤ワインが注がれたグラスが二人の前に置かれた。
乾がグラスを持ち上げ、軽く笑う。
「お疲れ様」
手塚は返事をせずに、グラスに口をつけた。
「…三年ぶりくらいか?」
「正確には3年と4ヶ月かな。タカさんの結婚式以来だから」
「ああ、そうか」
乾らしい答えに、手塚が少し口元を緩めた。
「手塚が引退か…」
低い声で乾がつぶやく。
「ああ。あとは国内の大会に出場して、それが最後だ」
この秋に行われる日本国内の試合を最後に、自分はプロテニスプレーヤーを引退する。それはもう決定されたことだ。
来月の誕生日が来て27歳。早過ぎる引退だと言われはした。
だが、自分は短すぎたとは思わない。
できることは全てやったし、悔いはない。
そう信じている。
「残念だな。故障がなければまだまだ続けていけたのに」
「それも実力のうちだ」
手塚の言葉に乾は黙って、グラスを揺らしいてたが、しばらくして口を開いた。
「先のことは、もう決めたのか?」
「いや、何も。今は最後の試合に集中しているだけだ。今後のことはそれからだ」
「うん。ゆっくり考えればいいさ。今までずっと走ってきたんだから」
静かに微笑む乾の表情は、とても優しい。
以前にも増して落ち着いた口調が、遠ざかっていた時間を実感させた。
並んだ料理に手をつけながら、短いやりとりが続いた。
懐かしい旧友達の近況を確認したあとに、手塚はやっとその言葉を口に出した。
「お前、結婚するそうだな」
乾の目が少しだけ細められる。
心臓がどきりと鼓動を大きくする。
「誰に聞いた?」
「この間、大石から電話をもらった時に」
そもそも今日、乾と会っているのは大石が連絡をくれたからだ。
引退を控えた手塚が帰国することを知った大石が手塚に電話を寄越したのがきっかけだった。
乾が会いたがっていた
そう言われて、心が動いた。
「情報が早いな」
乾は苦笑しているように見えたが、否定はしなかった。
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