■02.猫になりたい
朝から降り続いた雨は授業が終わる時刻になっても止む気配はなかった。
男子テニス部はテニスコートの使用をあきらめ、急遽室内練習にと切り替えた。
他の運動部の邪魔にならないようにランニングと柔軟が中心で、ラケットを使うのは素振り程度。
残りは普段では中々時間の取れないミーティングに割くことにした。
それでもやっぱり通常の部活ほどの時間はかからず、今日のところは少々短い部活となった。
大きな大会がすぐ控えてるわけでもないし、たまのことならこんな日も悪くはない。
部員達はそれぞれに引き上げ、いつもは帰るのが遅い手塚も後は日誌を書けば無事放免となる。
手塚は先に着替えを済ませてから、自分の教室に戻ると当然のように乾も後ろを付いてきた。
誰もいない教室でペンを走らせる。
降る雨が音を吸い込んでしまうのか、とても静かだ。
今聞こえるのは自分と斜め前にいる乾がいつものノートに文字を書く音だけ。
何気なく乾の右手を見ると、細い傷跡が何本も付いていた。
どれもまだ新しい傷のようで、赤く痛々しい。
「どうしたんだ。その手」
「ん?ああ、これね。うちの猫にやられた」
顔を上げた乾はふっと小さく笑った。
「そういえば猫を飼い始めたんだったな。まだ仔猫じゃなかったか?」
「うん。遊んでいるうちにエスカレートして爪を出したり噛み付いたりする。仔猫だから手加減なしみたいでね」
結構痛いんだよねと口では言っているが、顔は嬉しそうにしか見えない。
「頭は悪くないと思うんだけどな。トイレもすぐに覚えたし。でもこれは叱っても全然効き目がない」
ほら、と乾が両手の甲を手塚に向けると、そこには縦横無尽に傷が付いていた。
「叱り方が甘いんじゃないのか?」
「そうなのかな。猫を飼うのは初めてだからどう扱っていいのかわからなくてね」
本を読んだりネットで調べてみても、具体的な加減がわからないのだと乾は言う。
「越前にでも聞いてみたらどうだ」
「あ、なるほど。その手があったか」
その真剣な顔を見ていると、乾が相当にその仔猫に入れ込んでいる様子が伺えた。
「どうだ?猫のいる生活は」
軽い気持ちで言ったのが失敗だった。
それから手塚は優に30分以上にわたり、猫のいる生活がどういうものかを乾の口から聞かされる羽目になった。
放っておくといつまで続くかわからないので、手塚は苦笑しながら切りのよさそうなところで口を挟んだ。
「十分わかった。お前がどれだけその猫を可愛いと思ってるか」
「え?可愛い?」
散々熱弁を振るったくせに、乾は意外そうな顔を手塚に向けた。
「可愛いんだろう?」
「どうなんだろ。可愛いのかな」
今更何を言っているんだと思ったが、乾は本気らしい。
「でも、不思議な気持ちにはなるな」
乾の表情がすうっと和らいでいく。
「あんなに小さいのに、すごく存在感があるんだ。仔猫一匹そばにいるだけで、安心するようなくすぐったいような気持ちになる」
そう言ってから、乾は少し照れたような、だがとても優しい笑顔を浮かべた。
その顔を見ているだけで、乾がどんな風に仔猫に接しているか容易に想像が付いた。
あの大きな掌にそっと仔猫を乗せて、優しく包み込んで。
低いけれど甘く響く声で静かに名前を呼んで。
広い胸に抱かれれば、心地いい心音に眠りを誘われる。
そんな風に愛される仔猫はきっと幸せなはずだ。
この自分がそうであるように。
傷だらけの右手を見つめながら、乾に言った。
「今度、お前の猫を見に行っていいか」
「うん。ぜひ来てくれ。きっとうちの猫も手塚を気に入るよ」
「そういえば、まだ猫の名前を聞いてなかったな。なんて付けたんだ?」
嬉しそうに笑っていたはずの乾は急に真顔になった。
だが、心なしか頬が少し赤くなっているようにも見える。
「く」
「く?」
そこで少し間が空いた。
「…う」
「…くう?」
搾り出すような声をつなげるとそういうことになる。
「あまり猫らしくない名前だな」
首をかしげて乾にたずねると、今度は間違いなく赤く染まった顔で頷いた。
「あ、うん。そう…かもしれないな」
「どうしてそういう名前にしたんだ?」
「え?えーと…ね」
何か悪いことを聞いてしまったのかと思うほど、乾はうろたえていた。
「…寝るときにくうくう言うから」
どこか引きつったように笑いながらの答えはなんだか釈然としないが、乾がそういうんだからきっとそうなんだろう。
じゃあ、すうすう寝てたら、『すう』だったのか?という疑問は別の機会に聞くことにしよう。
不自然なほど赤くなった乾には、なんとなく今は聞いてはいけない気がした。
2006.06.12
どこまで続く猫ブーム。
言うまでもないことですが、本当は猫に「くにみつ」という名前をつけたんですよ、乾は。でも本人に聞かれてそうは言えなくなったのですね。だけど急に聞かれて咄嗟に嘘がつけなくて「く」まで言っちゃったのでした。後は苦し紛れにうなったら、勝手に手塚が勘違いしたのだな。でも「くう」って可愛いと思うんだけどな。駄目かしら(笑)。
乾が大きな手で仔猫を抱き上げたら、私はそれだけで萌えるよ。大きくなった猫の顎を肩に乗せるように抱くのもいい。
デザインスクール時代、大好きだった先生が学校に迷い込んできた猫をひょいと片手で抱いて、そのまま授業を続けたことがあってね。それにすんごくときめいたんですよ。抱きなれてる人が抱いているせいか、猫もすごく安心しきっていた。それが忘れられないんです。
あ、その先生は若い男性(笑)。髭と左利きってところがコンボでツボでした。
タイトルの「猫になりたい」ってのはスピッツの曲から頂きました。
塚→乾だと思って聞くと萌えますよん。歌詞検索でどぞー。
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