■05.レトロウイルス:依存症
初めて会ったのは一年と少し前。
顔を見た瞬間に嫌な予感がしたことを今でも良く覚えている。
普段は特に勘が鋭いわけでもないのに、そんなときだけは良く当たる。
結局は自分の予感通りの状況になり、一年が過ぎた。
そういえば、こうなったきっかけもやはり誕生日だったような気がする。

6月3日、土曜日の午後。
仕事場に使っている部屋はマンションの最上階にあるので、眺めがいい。
晴れた空を眺めていると、来客を告げるチャイムがなった。
誰が来たのかはわかっている。
乾はいつも時間に正確だ。
ドアを開けると、チャコールグレイのシャツを着た乾が立っていた。
ネクタイをしていない乾を見るのは久しぶりだ。

「お疲れ様です。お仕事はいかがですか?」
営業用の笑顔を浮かべているのはきっとわざとだ。
「止めてくれ。今日はプライベートだろう」
「休日返上で泊り込みをしなくてはいけないのはどなたでしたっけ」
「うるさい。早く上がれ」
はいはいと二度返事をして乾は靴を脱いだ。
履いていたのはスニーカーで、これも普段は滅多に見ることはないものだ。

誕生日に会えるかと先に切り出したのは手塚だった。
何とか休みを確保すると乾は約束して、その通りにしてくれた。
スケジュール調整がうまくいかなかったのは手塚の方で、結局ぎりぎりまで仕事が詰まり、やっと身体が空いたのは当日の午後になってしまった。
急いで、どこかに行こうかと電話で告げると、お疲れでしょうからと乾が手塚のマンションまで来てくれたのだ。

乾はいつも打ち合わせに使っているソファに足を組んで座った。
仕事中には決して見せないその仕草が、今日はプライベートで来たことを物語っている。
手塚は用意してあった乾へのプレゼントを持って、乾の向かいに腰を下ろした。
「誕生日おめでとう。良かったら使ってくれ」
「ありがとうございます」
手塚が目の前に差し出した小さな箱を、乾はにこりと笑って受け取った。
ベージュの包装紙に銀鼠色の細いリボンのかかった箱は見た目よりは重いはずだ。
開けていいかいいかと目で問いかける乾に、手塚は軽くうなずいて答えた。
間接の目立つ長い指が丁寧にリボンを外す。
そして、箱の中身を確認すると黙って顔を上げ、僅かに唇の端を持ち上げて見せた。

「これは嫌がらせですか」
「別に。君が好きそうなデザインだと思ったから選んだまでだ」
飾り気のないシンプルなフォルム。
細身ではあるが、手にすると程よい重量感があるので、安っぽくはない。
光沢を抑えたシルバーのボディは乾の手に良く似合っていた。

「禁煙中と知っていてる相手に、ライターを贈るという行為が嫌がらせではないと仰る?」
大きな手に収まったライターは、最初から乾の持ち物だったように馴染んでいた。
「俺は良かったら使ってくれと言ったんだ。無理に使えとは言ってない」
「確かに好みのデザインですよ。感触もいいし。これじゃどうしたって使いたくなる」
乾は何度か手の上で感触を楽しむように弄んでから、火をつける真似をした。

「忍耐力を試すいい機会じゃないか」
「簡単に言ってくれますね」
乾の前に入れたばかりのコーヒーを置くと、空になった手を掴まれそのままやや強引に隣に座らされた。
二人がけのソファが軽く軋んだ。

「あるヘビースモーカーの作家の方がエッセイか何かに書いていたんですが」
乾は良く通る声で静かに話し始めた。
落ち着いた口調だが、目が笑っていた。
「その方が言うには本当はニコチン中毒なわけじゃなくて、吸わないと口が寂しいから煙草を止められないらしいんです。だから、それを紛らわせるものさえあればすぐに煙草を止められると」
乾が何かを含んでいるのをわざと匂わせていることはわかっている。
あえて何も言わずに乾が先を続けるのを待つと、心得たようにくすりと笑って話を続けた。

「その方は、のべつ幕なしキスでもしていられれば、口が寂しくないから煙草なんかすぐに止められると宣言していらっしゃいました。どう思います?」
「どうも思わない」
「僕の禁煙に協力してくださる気はありませんか」
乾は手の中で遊ばせていたライターをことりとテーブルの上に置くと、右手で手塚の顎を軽く持ち上げた。

「誕生日が終わるまでなら、つきあってやってもいい」
「じゃあ、残り半日分遠慮しませんよ?」
顎を持ち上げていた手はするりと頬を滑り、項へと移動する。
もう片手は背中に回り軽く引き寄せられる。
とても優しい、それでいて決して逃げられない緩やかな拘束が心地良い。
柔らかく触れてくる唇の甘さに、身体中の力が抜けた。

乾は軽いキスを何度も繰り返した。
眼鏡をかけたままで数回、自分の外して手塚のも同じように取り上げてから、また数回。
本当に始終キスしたままでいるつもりなのか。

乾はふと唇を離して、手塚に笑いかけた。
「煙草を止められたとしても、今度はキスの依存症になりそうですよ」
「それは俺のせいじゃない」
「あなたのせいに決まっているじゃありませんか」
呆れたように笑ってから、乾はもう一度手塚の肩を抱いて、唇を押し当てた。

キスの依存症くらい、可愛いものだ。
俺の症状はもっと重症だと、中毒を引き起こした本人に教えてやりたいと思った。
2006.06.30
レトロウイルス誕生日ネタ。本当は手塚の誕生日話の続きを書くまで封印しようかと思ってたんですがね。最近、旧マシンから途中までのデータをサルベージしたので、まあいいかと書いちゃった。

文中の「ある作家の発言」というのは本当に大昔に読んだものです。ものすごく有名な日本を代表するSF作家の発言です。…わかる方いるかな。もしいらしたら、何かプレゼントしてもいい。でもヒントなしじゃきっと無理(笑)。

ヒント1 苗字が「K」で始まる方。 ヒント2 作品が映画化されたことがあります。 ヒント3 眼鏡をかけていらっしゃいます。

さあ、わかるかなー?